「原発大事故、つぎも日本」ある住職の悔恨の念を伝える小さな施設 核被害の悲惨さを福島から発信し続ける意味とは
第2原発の工事は着々と進み、82年には1号機の運転が始まった。一方、世界では79年に米国のスリーマイルアイランド原発、86年に旧ソ連のチェルノブイリ原発と大事故が相次いだ。早川さんは原発事故が日本でも起こり得るのではないかという不安を募らせていた。「原発大事故、次は日本」。周囲からは「原発坊主」と揶揄されることもあったが、危険性を訴え続けた。 03年からは、元福島県議の伊東達也さん(81)と共に、住民が東電と交渉する場を定期的に設けた。05年以降は「福島第1原発が巨大津波に耐えられない」として、再三にわたり国や東電に津波対策を講じるように求めてきたが相手にされなかった。「今日もダメだった」。早川さんは交渉から帰宅するたび、妻の千枝子さん(80)に漏らしていた。 ▽2人の「悔恨」 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。安斎さんは京都市の喫茶店にいて揺れを感じた。帰宅してテレビを付け、東北地方の甚大な被害を目にする。「原発が危ないかもしれない」。慌てて早川さんに電話を何度もかけたがつながらなかった。
翌12日午後3時36分、福島第1原発1号機で水素爆発が起きた。伊東さんはその映像を、いわき市にある自宅のテレビで見た。しばらくすると、玄関から突然大きな音が聞こえた。ドアを開けると、そこには早川さんが立っていた。 楢葉町を含め、原発から20キロのエリアがすっぽり立ち入り禁止になった。早川さんは、しばらく伊東さんの元に身を寄せた。 震災から約10日後、ようやく安斎さんの電話に早川さんが出た。「和尚、申し訳ない」。安斎さんは、科学者として原発の危険性を指摘しながら、事故を防げなかったことへの悔恨の念が思わず口から出た。「安斎先生に謝られると、こっちが申し訳なくなる」。電話越しに聞こえる早川さんの声は震えていた。 いわき市での避難生活を余儀なくされた早川さん。避難先では一日中、家の中で過ごすことが増えた。「反原発を訴えてきたこれまでの時間は何だったのか…」。震災や原発事故の報道を見るたびに、悔やんでいた。