「原発大事故、つぎも日本」ある住職の悔恨の念を伝える小さな施設 核被害の悲惨さを福島から発信し続ける意味とは
▽悔恨の思い 2015年9月、楢葉町の避難指示が解除。早川さんはふるさとでの生活を再開した。安斎さんは18年夏、専門家として原発事故を防ぐことができなかったという悔恨の思いをつづった詩を手紙で早川さんに送った。 「電力企業と国家の傲岸に 立ち向かって40年力及ばず 原発は本性を剥き出し ふるさとの過去・現在・未来を奪った 人々に伝えたい 感性を研ぎ澄まし 知恵をふりしぼり 力を結び合わせて 不条理に立ち向かう勇気を! 科学と命への限りない愛の力で!」 「これはいい!」。早川さんは感銘を受けた。「この詩の内容を具体的に展示して、人々に伝えなければならない」との思いから、2人は伝言館の創設に向けて動き始めた。 2人は「同じ惨劇を二度と繰り返さない」との決意を新たに、震災からちょうど10年の2021年3月11日、宝鏡寺に伝言館を設立した。同じ日に披露された境内の石碑には、安斎さんが早川さんに送った詩と2人の名前が刻まれている。
早川さんの提案で、原発事故だけではなく、1945年8月の広島・長崎の原爆や、1954年3月に米国のビキニ水爆実験で被ばくした第五福竜丸の資料を収集した。 原爆で背中が焼かれた少年の写真とともに「核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません」という被爆者のメッセージを紹介。ビキニ水爆実験を記録した第五福竜丸の当直日誌の展示もあり、核被害の惨状を伝えている。 ▽揺るがぬ信念 昨年11月、原発事故について学ぼうと来館した人に、早川さんが語りかけた。「(国は)原発事故が起きた地域や人々の暮らしをみじんも考えていない」。事故前から原発の危険性を指摘していたにもかかわらず国や東電に相手にされなかったことや、事故で避難生活を余儀なくされたこと、ふるさと楢葉町が一変したことへの怒りを込めた。時折、声を荒げて国や東電の事故責任を厳しく追及する早川さんの話に皆が聞き入った。 昨年12月8日、早川さんと安斎さんを取材した。歩行車を押して歩く早川さんの姿が1カ月前よりも弱々しくなったように感じた。しかし「(事故の原因は)電力企業と国家の傲岸という一言に尽きる」と厳しく糾弾する様子は変わっていなかった。この翌日、早川さんは肺炎でいわき市の病院に救急車で運ばれ、29日亡くなった。
▽遺志を継ぐ 伝言館は早川さんの死後も、遺志を継ぐ有志らによって存続している。安斎さんも月に1度程度、京都から訪れ、悲惨な核被害を繰り返さないように、展示のアイデアを練り続けている。「相棒がいなくなったから、当面は僕の思いでつないでいかなければ」。 世界ではロシアのウクライナに対する威嚇をはじめ核兵器の脅威が高まる中、今年、被爆地広島でG7サミットが開かれた。核をめぐるさまざまな動きがある今、核兵器も原発もない平和な社会を目指した早川さんの遺志は、伝言館から発信され続けている。