「犠牲者の名誉を回復したい」――精神医療の近代化と「私宅監置」
1949年に、沖縄初の公立の精神科病院が金武町につくられた。その後民間の精神科病院も開業したが、医療保険制度がなく費用が自己負担のため、治療を諦める人が多かった。一度は入院させても、入院費が払えなくなって自宅に連れ帰った。 「田畑を売って入院費をつくる家族もいました。でも2週間後にまた支払いがくる。財産を切り売りして(入院費に)充てていっても、最後は泣く泣く、監置小屋になってしまうわけです」 貧しい人には事実上、私宅監置しか選択肢はなかったのだ。本人の同意なしで入院させる措置入院という方法もあるにはあった。それなら公費で入院させることができる。しかし、病床数や予算が圧倒的に不足していた。 「私は措置入院というかたちで病院に入れてあげたかったけど、めったに許可が出ないんです。自分が調査した(措置入院の)申請が許可されれば、親の心労や経済的な困窮を軽くしてあげることができて、やりがいを感じることもできるけど、申請しても措置されないことの繰り返しで。本当につらくて、自分がおかしくなりそうでした」 結局、玉城さんは3年で退職した。
沖縄が日本に復帰した後は、私宅監置は徐々に姿を消し、小屋から生還した人はそのまま精神科病院に移されていった。 原さんや沖福連は、現存する監置小屋を遺構として残したいと考えている。しかし、玉城さんはそれには賛成できないと言う。 「あんなもの、もう見たくもない。(監置小屋を)負の遺産として残したいんだったら、今ある精神病院を見に行けばいい。病棟に鎖錠されて、個人の部屋に入ったらまた鍵で、10年も薬づけにされて。環境がきれいか汚いかだけの差であって、あまり変わらないんじゃないかと思うよ」
私宅監置は明治時代に始まった
そもそも私宅監置はなぜ生まれたのか。精神医療史の側面から私宅監置を研究している、橋本明・愛知県立大学教授を訪ねた。 橋本さんは「(1900年に)精神病者監護法が制定された理由は大きく二つある」と指摘する。一つは、幕末に諸外国と結んだ不平等条約の改正、もう一つは「相馬事件」だ。 不平等条約は具体的には、治外法権を認めることと、関税自主権を持たないことである。治外法権を認めると、外国人が日本で罪を犯しても、日本の法律で裁くことができない。 日本ではそれまで、精神疾患の取り扱いに関する公的なルールがなかった。座敷牢に閉じ込めたり鎖でつないだりすることが、私的に行われていた。諸外国とすれば、法の定めがないために、自国民が不利益をこうむったり残虐な扱いを受けたりするのは認められない。 「明治政府は、不平等条約を撤廃するために国内法を整備する必要があり、精神病者監護法もその一環としてつくられました。同法は『精神病者を監置できるのは、監護義務者だけである』と定めています。監置できる場所も『私宅』『精神病院』『精神病室』の三つに限定しています。これはつまり、『不法監禁しません』ということなんです」