「犠牲者の名誉を回復したい」――精神医療の近代化と「私宅監置」
もう一つの「相馬事件」とは、1880年代に起きた、旧相馬藩のお家騒動だ。相馬家当主が精神に変調をきたし、家族によって自宅に監禁され、のち東京府癲狂院(てんきょういん)に入院した。しかし、旧藩士の一部が「殿様は病気ではなく、財産をのっとろうとする陰謀だ」として訴えを起こす。裁判が泥沼化するなか、1892年に当主は病死した。この事件が社会的関心事となり、法整備の機運が高まった。 「精神病者監護法は私宅監置を定めた法律だから人権侵害だという論調もありますが、事態はむしろ逆で、不法監禁を防ぐためにこそ、法律を整備して、近代的な手続きのもとで患者を監置しようというものでした。(精神障害者を)地域から隔離して(小屋や病院に)閉じ込める発想は、近代だと思います。効率とか生産性とか、いま私たちが日常的に享受している便利さと同じものだと思います」
精神病者監護法を管轄するのは警察行政であり、治安維持の意味合いが強かった。例えば、申請時に提出する監置小屋の見取り図は、各県の警察がひな型を持っていて、家族はその指導のもとに図面を描いた。 申請書類でいえば、当時(明治時代)は精神医療の黎明期で、精神科医はほとんどいなかったのに、誰が診断書を書いたのかという疑問が生じる。答えは「医者だったら誰でもよかった」。橋本さんによれば、病名はおおまかにしか書かれていなかった。むしろ重要なのは、患者が暴力を振るって近隣に迷惑をかけるとか、火の取り扱いが不安だといった、治安に関する訴えだった。 現存する監置小屋は1952年に建てられたものだが、橋本さんはさらにその50年前、日本の精神医療のはじまりを見る。「近代化の歴史の一部として、保存して後世に伝えてほしい」というのが橋本さんの意見だ。
「外に出せるわけない」写真
原さんの映画「夜明け前のうた~消された沖縄の障害者」には、晩年、那覇市の高齢者施設で暮らした富俊さんが、サンタクロースの扮装をしている写真が出てくる。 1966年に精神科病院に入院した富俊さんは、1972年に退院し、通院治療に切り替えた。実家の母屋に一人で暮らした。監置小屋はのちにボイラー設備を取り付けて、シャワー室として使ったそうだ。亡くなる2年前に施設に入所。妄想や幻聴は、2017年に亡くなるまで続いたという。 「彼がどういうつもりだったのか、なぜこの小屋を壊さなかったのか、それは聞けなかったんです。亡くなってしまったので。だけど、いろんな経緯があって、ここは奇跡的に残っている。それはとても大切なことなんじゃないかと思っています」(原さん)