「犠牲者の名誉を回復したい」――精神医療の近代化と「私宅監置」
現存する監置小屋を見にいく
沖縄で私宅監置されていた人たちの「いのちの痕跡」を、這うようにして記録してきた映像作家がいる。 愛知県出身で、現在は那覇市に住む原義和さん(51)は、絶望的な闇の中に閉じ込められたまま死に至った、あるいはそこからかろうじて生還した人々の記録を、「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」というドキュメンタリー映画にまとめた。 「この制度は、国が作って保健所や警察が管轄した、公的な隔離政策です。しかし手続き上、親やきょうだいが監護義務者になるため、まるで自分たちが主体的に閉じ込めているように思わされる。だから、固く口をつぐんでしまう。その結果、監置された人たちの存在は社会から消されていきました」
今年5月、原さんの案内で、沖縄で唯一壊されずに残っている監置小屋を見にいった。もう一人、公益社団法人沖縄県精神保健福祉会連合会(沖福連)の山田圭吾会長も同行してくれた。沖福連は、県内各地域の精神障害者家族会がベースになっている組織である。 原さんの調査によれば、富俊さんは1929年生まれ。23歳のとき人に会うことを怖がるようになり、精神疾患の症状が表れる。症状は次第に悪化した。沖縄県公文書館に保管されている監置の許可書には、こう書かれている。 「神経衰弱症を起こし、その後、不眠状態に陥り、言動の異常を認められるに至り、自宅にて療養中なるも、恐怖憂鬱症にして、常時自閉無為の状態にありたる。一二月一三日正午頃より、急に行動暴発的になり、部落民に恐怖を与えること甚だしく、他人に危害を与えるほか、公安上憂慮される状態である」
富俊さんの監置許可願いは、1952年12月に琉球政府厚生局予防課で審議され、1週間後に琉球政府の許可が下りた。 実際に監置された場所を歩きながら、原さんが解説する。 「もともとは母屋の裏に木で小屋がつくられていたんです。富俊さんは大工をしていたし、体も大きくて力もあったから、壊して外に出てしまった。そこで、コンクリートブロックの頑強な小屋を、今の場所に建て直した。警察官が6人がかりで押し込めたそうです」 一時的に外に出ることもあったようだが、小屋に閉じ込められた生活は、1966年に金武町(沖縄県国頭郡)の精神科病院に入院するまで続いた。