1万3000人の犠牲者を出した「大義」なき西南戦争 西郷隆盛、最大の罪とは?
私学校徒の暴発と西南戦争
明治10(1877)年1月29日、私学校の生徒たちが草牟田(そうむた、現:鹿児島市草牟田町)の陸軍省火薬庫を襲撃する。この襲撃は2月2日まで続けられ、私学校には相当量の兵器が集まった。 このような動きは、西郷が指示したものではなく、むしろ暴発の報を受けた西郷は激怒したという。しかし、これを契機として、私学校の生徒を中心に出兵の機運が高まる。ちょうどこの頃、政府から西郷暗殺の命を受けた密偵が鹿児島に入っていたことも、武力蜂起の口実となった。 最終的に、西郷は私学校生徒たちの動きを止められず、出兵を認める。このとき、彼は「おはんらにやった命、おいの身体は差し上げもうそう」と話したという。西郷は、決して内戦を望んでいなかった。しかし、担ぎ上げられた彼は、武力蜂起を「追認した」のである。 西郷は軍を率いて東上するにあたり、「今般政府へ尋問の筋これあり」から始まる文書を、鹿児島県令・大山綱良(つなよし、1825ー1877)に提出した。この「尋問」をどう解釈するかは多少意見がわかれるが、経緯を踏まえて考えれば「西郷暗殺の密命について問い質したい」との意味になるだろう。 それが正しければ、西郷は立ち上がるに当たって、政治的な意見を一切発していないということになる。つまり、「大義」なき戦争である。これはほかの士族反乱と比較しても、明らかに異質だった。
戦争で犠牲になる庶民
この西南戦争は、多くの場合、西郷本人の人生の一部として記され、被害の深刻さが問われることは極めて少ない。しかし、本来はこの戦争で1万3000もの人命が失われたことを、一番に知るべきだろう。犠牲者の多くは、前途有望な青年だった。なお、この1万3000という犠牲者数は、戊辰(ぼしん)戦争におけるそれとほぼ同じである。 しかも、西南戦争は、新政府と旧幕府の戦いとして誰もが「大義」が理解できていた戊辰戦争と違い、特に一般の庶民にとっては「意味のわからない戦い」だった。 しかし、そうであっても、戦争である以上は多くの兵士に加え、荷物を運ぶ軍夫や食糧が必要となる。政府軍、西郷軍とも、軍夫や食糧を戦況に応じて現地で集めていた。特に、形勢が悪くなってからの西郷軍は、強制的にそれらを集め、対価を払わないことも多かった。また、戦略として多くの村々は焼き払われ、何の罪もない人々が焼き出され、死傷した。 西南戦争で戦場となった村々では、一体どのような風景が繰り広げられていたのだろうか。大きな歴史から見れば、とても小さな記録を、一つ紹介しておきたい。 熊本県五小区木葉町(現:玉名郡玉東町木葉)では、2月21日に政府軍が入り、炊き出しや人足の周旋を要請された。そしてその2日後。今度は西郷軍300人が、同町に突撃してきたのである。 このとき、農民だった田尻勝次の長男・才太郎は、恐ろしさのあまり、便所に逃げ込んだ。人が不安を感じたときに便所に籠もるのは、今も当時も同じである。そして、この憐れな13歳の少年は、便所に飛んできた弾丸を頭部に受け、絶命したのだった。どちらの軍が撃った弾かは、わからない。家族はあまりの悲しみで、彼の死亡届を一カ月も提出できなかったという(猪飼隆明『西南戦争』)。 今年の大河ドラマ『西郷どん』でも、「元・二才頭」西郷隆盛が、城山において自刃するシーンで、多くの人々が涙を流すだろう。歴史に名を残す「偉人」が、なぜこのような悲劇的結末を迎えなくてはならなかったのか、そう憤る視聴者もいるだろう。一方で、便所の中で死んだ才太郎は、もう思い出されることすらない。 先述の通り、この「大義」なき戦争は、西郷によって積極的に始められたものではない。しかし、この戦争を止められるのは、間違いなく西郷ただ一人だった。そのことの重みは、決して忘れられてはならないと思う。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司) 1974年兵庫県神戸市生まれ。京都大学経済学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。現在、大阪学院大学経済学部教授。専門は社会思想史。特に、江戸時代の庶民文化・思想の研究に注力している。著書に『江戸の瓦版』、『明治維新という幻想』(いずれも洋泉社)、『石門心学と近代――思想史学からの近接』(八千代出版)、『石田梅岩』(かもがわ出版)、『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『外国人が見た幕末・明治の日本』(彩図社)など。近刊に、作家・原田伊織氏との対談『明治維新 司馬史観という過ち』(悟空出版)がある。