【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】東京六大学野球の2年先輩・土井淳が語る"ミスタープロ野球"④
土井 メジャーリーグとプロ野球の実力差は大きかった。だけども、長嶋なら通用したと思う。だって、ボール球でもヒットにする男なんだから。 ――パワーで及ばなくても、ほかの部分で補うことができたということでしょうか。 土井 長嶋は、彼にしか持ち得ないものを持っている。それをみんなが"野生の勘"とか言ったんだろうけど。 1番打者の柴田勲が一塁にいて、長嶋がバッターボックスにいる。盗塁のサインが出たんだろうけど、「行っちゃいかん、行っちゃいかん」と小声で言っているわけだ。その時、たまたま俺はいい送球ができて、盗塁した柴田を二塁で刺すことができた。長嶋は打席で「やっぱりアウトになったか」とつぶやく。 ――まるで、預言者か超能力者ですね。 土井 本当のことだよ。俺が引退したあと大洋で三塁コーチをしている時があった。巨人ベンチから牧野茂ヘッドコーチが「もっと前を守れ」と指示を出しても、長嶋は気づかないふりをしてるんだよ。「長嶋、牧野さんがなんか言ってるぞ」と声をかけても「いや、いいんですよ」と言う。その指示に意味がないことがきっとわかっていたんだろう。 ――長嶋さんならではの勘でしょうか。 土井 人の指示で守備位置を変えることよりも、自分の感覚を大事にしたかったんだろう。だから、自分で「ここ」と思うところを守る。きっと、「長嶋の世界」があったんだよ。三塁を守っている時に「気をつけろ、気をつけろ」とぶつぶつつぶやいている時もあった。そういう時に限ってヒットが出る。不思議なんだけど、そうなんだよ。 動物的な勘と言うべきか、野生の勘と言うべきか。長嶋にだけわかる鋭い感覚を持っていたことは間違いない。 ――メジャーリーグというレベルの高い場所でそれがさらに磨かれた可能性はありますね。 土井 超一流選手はそういうものをみんな持っているものだけど、長嶋の場合はもっと突き抜けていたね。 次回、大矢明彦編の配信は11/23(土)を予定しています。 ■土井淳(どい・きよし)1933年、岡山県生まれ。岡山東高校から明治大学に進学ののち、1956年に大洋ホエールズに入団。岡山東、明治の同級生で同じく大洋に入団した名投手・秋山登と18年間バッテリーを組んだ。引退後は大洋、阪神にてバッテリーコーチ、ヘッドコーチ、監督を歴任。スカウト、解説者を経たのち、現在はJPアセット証券野球部の技術顧問を務めている。 取材・文/元永知宏