「夢の中にいるような感覚」――すゑひろがりず、アイドル的ブレイクの理由
今では「狂言風キャラ」がすっかり板についているが、もともとは大阪を拠点にして正統派の漫才師として活動していた。しかし、鳴かず飛ばずでオーディションにも落ち続け、劇場の舞台にすら立てない日々が続いた。解散を考えるほど追い詰められたときに、最後の一手として繰り出したのが、現在の狂言風のネタの原型となる「狂言風クリスマス」のショートコントだった。 「それがめちゃくちゃウケたので、思い切ってそのネタに特化していったら、初めて劇場に出られたんです」(三島) 狂言風のネタをより面白く見せるために、小鼓や扇子を持つようになった。獅子舞を使うこともあった。 「小鼓はいいアイテムですね。めでたい感じもあるし、音もうるさすぎなくて邪魔にならない。スベったときにも、この音が鳴ると何となく収まるんです」(南條) このネタを引っさげて東京に進出したところ、テレビでも評価されてプチブレークを果たした。深夜番組を中心にいくつかの番組にも出演した。だが、喜んだのもつかの間、テレビの仕事は長続きしなかった。 「1年ぐらいでパッタリ止まりましたね」(三島)
「1回見たらもういいか、っていうタイプの芸人だったんでしょうね」(南條)
その後、彼らは埼玉県の大宮にある「大宮ラクーンよしもと劇場」を拠点として活動するようになった。地元のイベントなどの営業にも呼ばれるようになり、そこで自分たちの狂言風のネタがお笑いライブの観客以外の一般人に通用しないことを思い知らされた。 「最初は何も説明せず、怖い顔していきなりネタをやっていたんですよ。結構スベってましたね」(三島) そこからやり方を変えることにした。営業が得意な先輩芸人の舞台を見て、盛り上げるためのコツを学んだ。 衣装の色を黒から明るい色に変え、おめでたい感じのキャラクターに切り替えた。小鼓を何回も打ち、にぎやかな雰囲気を出していった。 「あと、やっぱりコントよりも漫才のほうがいいなって思ったんです。1回も説明せずにネタだけやるよりも、途中でツッコんだほうがどう考えてもウケるので。そうやって『M-1』の漫才の形ができてきたんです」(南條) 営業で鍛えた狂言風漫才で爆笑を取れるようになった結果、『M-1』の決勝にも進むことができた。そこで彼らの存在が多くの人に知られるようになった。