中村勘九郎 父・勘三郎さんを偲ぶ追善興行の舞台裏、弟・七之助との絆、ふたりの息子たちの成長を語る『中村屋ファミリー』インタビュー
七之助と相合い傘で出られた「梅雨小袖昔八丈」は、今でいうと「エモい」(笑)
――6月には、「新宿梁山泊 第77回公演『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』」がありました。 これもね、僕は、(新宿)梁山泊もそうですけれども、(脚本を書いた)唐さん…唐十郎の言葉をしゃべりたいとずっと思っていたんですね。「いつか、かなうといいな」みたいな話を(新宿梁山泊を観劇)していて、次の日ですよ。 寺島しのぶさんと豊川悦司さんが観に行って。で、例のごとく飲み会で盛り上がったんでしょうね。電話かかってきて「決まった」って。 こんなに簡単に決まるんだと思って。縁というか、タイミングというかね。 「出たい」という気持ちは、初めて観たときからありました。だって、一番楽しそうじゃないですか。魂というかエネルギー…じゃないな、なんだろう。観るじゃなくて、浴びにいくというか。聞くじゃなくて、感じる。もう原点ですよね、役者の。 父が、唐さんの「蛇姫様」をテントで観てから「いつかやりたい」と思い、コクーン(歌舞伎)になって平成中村座につながった。 ロッペイちゃん(六平直政さん)なんて、いい加減だから「これが一番の追善だ」って。でも、確かに、そうだったかもしれない。父は、悔しがっていたと思います。「俺が、俺が最初に出るんだ!」って。 最初に、こだわるから(笑)。 ――8月、八月納涼歌舞伎では「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」で髪結新三を演じました。 新三は、ずっとやりたいと言っていまして、今回、十三回忌ということでね。「籠釣瓶」の時もそうでしたけど、新三をやることの重みというより、ワクワクしかなかったです。 (作者である、河竹)黙阿弥は、やっぱりビジュアル系なんだなと感じる、音とセリフ。七五調、形、匂い、景色…すべて、ビジュアルで見せるというのは、かっこいいですし、よくできていますよね。 実は、父が具合の悪いときに「新三、稽古してあげるよ」と言われたことがあるんです。祖父(十七世 勘三郎さん)が、酸素テントの中から父に教えて、それが最後になったわけで。最後に、じじんちゃまに教わったから、それをやりたかったのかなと。 でもね、子どもとしては「そんなの、縁起でもない」って。今となっては、教わっておけば良かったと思わないこともないですけど。 それでも、父の衣装が出てきて、それを着られたことも大きな力をもらえましたし、七之助の忠七と、2人で相合い傘して出られた。これは、今でいう「エモい」っていうのはありましたね(笑)。 ――そして、10月には、(硫黄島を会場とした)十八世中村勘三郎十三回忌追善三島村歌舞伎「俊寛」公演がありました。 硫黄島は、バタバタすぎたでしょう(笑)。 あんな野外の大事な公演というのは、なかったと思います。挨拶でも言いましたけど、公演ができたことは奇跡だと思いましたね。 あと、あのときは髪伸ばしてたじゃないですか。そのおかげで、うちの父のね、頭(鬘)が入ったんですよ。衣装も、祖父からの大事なもの。頭も、やはりその人間を表すのに、すごく大事なものがある。父の頭で出られたのは、うれしかったなぁ。 ――最後になりますが、中村屋ファミリーにとって節目の年となった、この一年を振り返ると? 今年も、仲良く過ごせたんじゃないですか。うちの一番の強みは、仲が良いってことですから。みんな仲良くできたと思います。 今回、追善でいろいろ勤めさせていただいたので、これを若い人たちにもつないでいかないと。また、みんなで一緒になって、進めていきたいですね。 聞き手:花枝祐樹(番組ディレクター)
めざましmedia編集部