こんなに人に恵まれたバンドがダセえわけがない――メジャーで一度はクビにされても今や武道館3DAYS、SUPER BEAVERが語る人との縁 #なぜ話題
インディーズ時代のエンジニアやCD業者が今に続く仲に
そんな状態でメジャーとの関係が長く続くわけもなく、彼らはたった2年でメジャーをクビになり、4人だけで音楽活動をはじめることになる。彼らはメジャーデビュー前に行った初ツアーのときからマネージャーがついていたため、ステージや楽曲制作以外のことについては幸か不幸かほとんど知らなかった。ツアーのブッキング、ツアー車の運転、レコーディングスタジオのブッキング、CDやグッズの制作と管理などなど、自分たちがそれまで知らなかったことは柳沢があちこち駆けずり回ってやり方を学ぶ。トライ・アンド・エラーの毎日だった。 当然、お金はない。楽曲のレコーディング費も、CDジャケットのデザイン料も、エンジニアやデザイナーの厚意で出世払いにしてもらった。ちなみに、このときのレコーディングエンジニアは今もSUPER BEAVERの作品を録り続けている。 新譜資料や宣伝用のポスターを自分たちの手で発送し、CDの流通会社とは柳沢が個人で契約を交わした。このときにCDプレスを担当した業者が現所属事務所で、柳沢が初めて電話をしたときに受話器を取ったのが現マネージャーだった。
「初めてCDができたときはうれしかったな。『未来の始めかた』という作品だったんですけど、その宣伝用のPOPがタワレコの売り場に貼ってあって……。あと、このときに初めて“イニシャル”(CDやレコードの初回注文枚数)っていうものを知ったんですけど、いまだにイニシャルはスタッフに確認します。それで『今、何枚ぐらいです』って言われたら、『それなら、もうちょっとこういう施策をしてみませんか?』みたいな提案を自分たちからしたり」(柳沢) 全国のライブハウスにおける自分たちの評判が悪かったこともこの頃に知った。メジャー在籍時はライブ後の打ち上げの参加を「時間の無駄だから」と当時のスタッフに禁じられていただけでなく、ライブハウスのスタッフとの挨拶も当時のスタッフを通じてしていたため、「自主性のない奴らだ」とバンドとしての印象を著しく下げていたのだ。 「あとでけっこう言われましたね、『全然好きじゃなかったよ』とか。でも、『また自分たちで音楽やろうと思ってるんで』っていう話をさせてもらったら、全国各地のライブハウスの人たちが『じゃあ、力貸してやるよ』って言ってくれて。その人たちとはいまだに交流があるし、そういうライブハウスが周年を迎えたら僕らは今でもライブをしに行きます」(渋谷)