人間が機械の部品のように扱われる組織とは
■プログラム型組織の環境と種類 プログラム型組織は、シンプルで安定した環境で栄える。複雑な環境では業務をシンプルな課題の形に整理できないし、変化の激しい環境では業務の予測がつきづらく、同じ業務が繰り返される可能性も小さいため、業務の標準化が難しい。したがって、広告会社や映画制作会社でこの種の組織形態を採用しているケースは少ない。 一方、小売チェーンや日用消費財メーカー(ペンや歯ブラシのような製品のメーカー)など、「大量生産」や「大量サービス」を提供する企業は、こうした組織形態を採用しやすい。この傾向は、「コストリーダーシップ戦略」―端的に言えば、低価格路線―を追求している企業でとりわけ顕著だ。 また、プログラム型組織の形態は、成熟した組織でよく見られる。組織の規模が大きければ、反復業務が多かったり、業務の標準化が可能だったりするし、歴史が長ければ、どのようなルールに従いたいかがはっきりしているからだ。そのような組織は、すでにあらゆる状況を経験していて、それらの状況に対処するための手順を確立できているのだ。パーソナル型組織が歴史を重ね、創設者によるコントロールを離れると、プログラム型に変容する場合が多い。少なくとも、シンプルな環境で活動している組織では、そのようなパターンがよく見られる。 パーソナル型は変化の激しい環境で繁栄してきたかもしれないが(不確実性はこのタイプの組織にとって最良の友だ)、組織形態を転換させることにより、環境を安定させて、プログラム化を進めやすい状況をつくり出すのである。具体的には、納入業者と長期契約を結んだり、競合企業とカルテルを形成したりする場合もある。 プログラム型組織には、別の面でもコントロールの要素が関係してくる。コントロールすることを業とする組織は、この組織形態を採用する場合が多いのだ。人々のお金を守らなくてはならない銀行や、受刑者を収容しなくてはならない刑務所、旅客を安全に目的地まで送り届けなくてはならない航空会社などがこのパターンに当てはまる。こんなジョークがあるくらいだ。「(航空会社は)じきに新しい形態のフライトクルーのあり方を導入するだろう。操縦士ひとりと、犬1匹で構成されるチームだ。操縦士の役割は犬に餌をやること、犬の役割は操縦士が機器類に手を触れないように見張ることである」というものだ。 組織が外部からコントロールを受けていることも、プログラム型の組織形態の採用を促す要因のひとつになりうる。本書『ミンツバーグの組織論──7つの類型と力学、そしてその先へ』第6章で述べたように、外部からコントロールを受けている組織は、集権的な性格が強くなり、活動の正式化を推し進める傾向があるからだ。企業のオーナーがみずから経営をおこなわずに会社をコントロールしようとする場合は、CEOを任命し、業績に関する厳しい基準を達成するよう義務づける。すると、CEOは、その基準を達成するために、社内の組織階層の上から下へ、さまざまな計画や目標を課す。 企業が株式を上場させた場合にも、同様のことが起こる可能性がある。株式市場のアナリストたちが業績の安定的な成長を期待するからだ。また、政府機関もプログラム型の組織形態を取りやすい。政治家や官僚機構の上層部は、想定外のことが起きることを好まず、そのような事態を防ぐためにルールを増やすことを奨励するからだ。 もっとも、影響力を及ぼそうとする外部の勢力にとって都合のいい「道具」として、プログラム型組織の形態が採用される場合ばかりではない。外部からの影響力をできるだけ排除するための閉鎖的なシステムとして、この種の組織形態が採用される場合もあるのだ。もちろん、完全に閉鎖的なシステムなどありえない。しかし、きわめて閉鎖的なプログラム型組織は存在する。市場で独占的地位を確立している企業などがそれに該当する。 そのほかに見落とせないのが、20世紀の共産主義体制だ。共産主義国家は、巨大なプログラム型組織として機能していた(冷戦時代には、旧ソ連圏の共産主義国家と、グローバル化の進んだ資本主義世界の企業が対峙した。しかし、この両者の組織構造はどれほど違うのだろう。米国の企業幹部で著述家のジェームズ・ワーシーはこう記している。「科学的管理法が真に花開いたのは、米国ではなく、ソ連だった」)。 興味深いことに、外部勢力の道具から内部者のための閉鎖的システムへ、あるいはその逆方向の転換を遂げることはそれほど難しくない。組織構造そのものを変える必要がないからだ。ピラミッド型組織の頂点に権力が集中しているので、最高位者が交替してもすぐに組織が円滑に動き始める(その点、パーソナル型組織の最高位者が交替すれば、組織は大混乱に陥るだろう)。また、このような特徴は、プログラム型の民間企業に限定されるものではない。このタイプのNGOや国の政府は、(たとえば政権交代があったあと)追求する目標が変わっても、混乱なく活動を続けているケースが多い。 ■プログラム型組織の長所と短所 アマゾン・ドット・コムで購入した品物が隣の家に届いたり、朝の8時に頼んでおいたホテルのモーニングコールが8時5分にかかってきたりするようでは、誰だって困る。それに、フットボールのオフェンシブガードの選手がクオーターバックからのパスをキャッチすれば、反則になる。まとまったいくつかのシンプルな課題を正確に、安定的に、そして一貫性のある形で実行したい場合、機械がそれをおこなう場合はさておき、生身の人間がその役割を担うのであれば、プログラム型に勝る組織形態はない。 しかし、まったく同じ理由により、プログラム型組織で働くことは、ときとして耐え難く感じられる。しばしば人間が機械の部品のように扱われるが、人間は部品などではない。それに、人間は経済的存在でもない。社員を「人的資源」として扱うのは、牛をサーロインステーキ扱いするのと変わらない。申し訳ないが、私は人的資源などではない。人的資産でもないし、人的資本でもない。私はあくまでも「人間」だ。 ■よい意味での官僚制と悪い意味での官僚制 前述したように、「官僚制」という言葉は、機械のように動く組織と結びつけて用いられるケースが多い。この言葉を有名にしたのは、20世紀ドイツの社会学者マックス・ウェーバーだ。ウェーバー自身は否定的な意味合いはなしに、本章で論じているような組織を表現する価値中立的な専門用語としてこの言葉を用いた。そして、「機械」という言葉を通じて、この種の組織が備えている正確性とスピードを表現しようとした。ウェーバーを論じた著作にこんな一節がある。「高度に発達した官僚機構とほかの形態の組織の違いは、機械による生産と機械を用いない生産の違いとまったく同じである」 しかし、官僚制という言葉には侮蔑的なニュアンスもついて回る。コントロールすることに固執する悪者という印象があるのだ。この種の組織では、幹部がマネジャーをコントロールし、マネジャーが働き手をコントロールし、働き手が顧客をコントロールし、アナリストがすべてをコントロールしている、というわけだ。ある英国企業の計画担当マネジャーはこう述べている。「コントロールのプロセスを介することにより、マネジャーが事業への恋に落ちることを防げるのです」。では、マネジャーは自分たちの事業を憎むべきだというのだろうか。社会学者のミシェル・クロジエがフランスの2つの政府機関を対象におこなった有名な研究で指摘したように、この種の組織では、誰もがおおむね等しく扱われることも特徴だ。組織全体に及ぶルールがすべての人をコントロールするためである。 プログラム型組織の機能不全を論じることにより、マネジメント論の世界で名を上げた論者は多い。クロジエ以外にも、エルトン・メイヨー、フリッツ・レスリスバーガー、クリス・アージリス、ウォレン・ベニス、レンシス・リッカート、ダグラス・マクレガー、ジェームズ・ワーシーといった人たちがそうだ。 今日では、政府機構全般について「官僚制」という言葉が用いられる。やはり侮蔑的なニュアンスとともに、公務員のことを「官僚」と呼ぶ場合もある。ただし、政府セクターの組織すべてがプログラム型組織とは限らないし(この点については後述する)、民間セクターの企業にもこのタイプの組織が少なからずある(漫画「ディルバート」ではしばしば、会社の中の官僚体質が風刺の対象になる)。 以下では、プログラム型組織の問題点について、組織階層の3つのレベルごとに見ていく。 ■「業務コア」に属する人たちの疎外感 フレデリック・テイラーは、かつてこう述べている。「昔は、人間が最優先だった。将来は、システムが最優先になるに違いない」。未来を的確に予言した言葉だったと言うほかないが、多くの人にとって、プログラム型組織は幸せな職場とは言えない。業務コアに属する人たちにとっては、とりわけそうだ。テイラーは、工場の現場から「頭脳を働かせる活動を極力すべて」取り除くべきだと主張したが、それは現場で働く人たちの主体的な行動をすべて取り除く結果も生み出した。 前出のジェームズ・ワーシーは、この点について次のように指摘している。「機械は独自の意思をもたず、機械の部品は独立した行動への意欲をもたない。したがって、思考と方向性、さらには目的意識も、外部もしくは上層部から与えるべきものとされる」。その結果として、「仕事のやり甲斐そのものも破壊されてしまった」。これは、「産業界と社会に途方もなく大きな害をもたらした」。具体的には、「欠勤が非常に多くなり、従業員の退職率が高まり、ずさんな仕事が蔓延し、ストライキにより莫大なコストが生じ、露骨なサボタージュまでまかり通っている」。なんということだろう! しかも、これは企業幹部の経験をもつ人物が述べていることなのだ。 見落としてはならないのは、この種の批判をしている論者の多くが、自分自身の仕事についてではなく、業務が極度にプログラム化されることにより悲惨な状況に置かれている働き手たちについて記しているということだ。実際には、秩序と予測可能性を好む働き手にとっては、プログラム型の組織でもまったく問題ない場合がある。スーパーマーケットのレジ係の仕事をしている人物が、みずからの仕事について以下のように述べている(これは、スタッズ・ターケルの名著『仕事!』〔邦訳・晶文社〕で紹介されている言葉だ)。 お客が商品を持ってレジにやってきます。私が腰でボタンを押すと、ベルトコンベアを通ってレジに商品が流れてくる。そして、手元にある程度、商品がたまったところで、腰を離す。こうやって体を動かすだけ。腰、手、レジスター、腰、手、レジスター……という具合に(レジの作業を実演してみせる彼女の手と腰の動きは、東洋の踊り子のようだった)。ワン、ツー、ワン、ツーと、体を動かし続けます。このリズムが身につけば、仕事の速いレジ係になれます。 ■組織階層を上がっていく対立 プログラム型組織の業務コアは、あくまでも業務を効率的に実行することを目的に設計されている。疎外と対立の問題に対処することは目的としていない。その結果、事業活動の現場で発生した人間関係の問題は、組織階層の上の層へ、つまりミドルマネジャー層へとそのまま上がっていく。しかし、そこは「サイロ」により縦割り化されたシステムのど真ん中だ。問題に対処するために必要な相互の調整は、ほとんどおこなわれない。協力によって明るい希望の光が差すよりも、対立の炎が燃え上がってしまう場合が多い。 そのため、現場から上がってきた対立は、このような「サイロ」で生じた対立とともに、組織階層の間に横たわる分厚い「スラブ」(横板)を越えて、組織階層のさらに上の層へ上がっていく場合もある。最終的には、すべての「サイロ」が合流する場所、それより上に責任を押しつけられない人の場所まで上がっていくこともある。しかし、高い場所にいるマネジメント層の人たちは、直接の接点をもっていない地べたの人たちが直面している問題を解決できるのだろうか。 ■「トップ」の隔絶 この問題も、プログラム型組織ではシステムによって解決されることになっている。とくに、経営情報システム(MIS)に期待される役割が大きい。経営情報システムを通じて、現場で収集されたデータを数値化し、組織階層を上へ上がっていく過程で集計して、多忙なマネジャーが手っ取り早く読めるように報告書の形にまとめるのだ。 インドネシアで売上げが落ち込んでいる? その場合は、現地のマネジャーに売上げを増やすよう指示することになるだろう。でも、どうして売上げが減ったのか。もしかすると、米国のアイオワ州で設計された製品がインドネシアの消費者に適していなかったのかもしれない。問題は、経営情報システムがこのような情報をまったくもたらさないことだ。そうして情報を得るためには、現地の消費者に話を聞く必要がある。でも、ニューヨークの高層ビルの77階にあるオフィスから、どうやってインドネシアの消費者たちの話を聞くのか。インドネシアのマネジャーたちは、売上げが減少した理由を知っているかもしれないが、それを米国本社の上層部に伝えようにも、そうした情報を入力する場所が経営情報システムにはない。 ミシェル・クロジエが指摘しているように、プログラム型組織では「意思決定が……死角の中でおこなわれる場合が多い」。この種の組織においては「現場を直接知らない人たちが意思決定をくださなくてはならない……そこで、意思決定者は、部下がもたらす情報に依存せざるをえないが、部下は主観的な利害により、データを歪めようとする可能性がある」。また、経営情報システムがデータを集約する過程で必要な細部が取り除かれたり、データがマネジメント層に届くまでに時間がかかりすぎたりするケースもある。そうやってぐずぐずしている間に、もっと機敏なライバル企業に顧客を奪われかねない。 問題の存在を明らかにするためには、ハード(定量的)なデータが役に立つかもしれないが、問題の原因を明らかにし、問題を解決するためには、ソフト(定性的)なデータが不可欠だ。しかし、そのようなデータが不足しているために、プログラム型組織の上級マネジャーたちは、既知の、有効とは言い難い方法論に頼ることになる。その方法論とは、コントロールを強化するというものだ。そうした行動は、問題の火に油を注ぐに等しいが、ほかのアプローチを実践して、たとえば直接的な監督に乗り出せば、マイクロマネジメントをしているなどと批判されかねない。「この会社は、あなたの個人事業ではないのですよ。組織階層を尊重して、大局を見ることに集中すべきです」などと言われてしまう。 しかし、大局を見て大きな絵を描くためには、細部を理解している必要がある。問題は、77階のオフィスから下を見ても、地べたの上にあるものはぼんやりとしか見えないことだ。そのため、プログラム型組織では、たいてい小さな絵しか描かれない。既存の戦略の細部を修正して採用したり、ほかの組織で用いられている戦略を模倣したりするだけになる。 このような組織は、言ってみれば定番の「業界共通のレシピ」に基づいて、みずからの戦略を「ローカルに生産」しているにすぎない。同様のほかの組織と異なる点は、その戦略を実践する「場所」だけだ。戦略をつくる「方法」にはまったく独自性がない。確かに、業界で標準的な戦略を自社に持ち込むのは効率がいい。だからこそ、そうしたアプローチが普及しているのである。実際、電話会社や郵便局の戦略はどの国でも似たり寄ったりだし、近所のスーパーマーケットやフィットネスジムもたいてい戦略に大差はない。 プログラム型組織は、この落とし穴を回避することを目的とする仕組みをもっている。その仕組みとは「戦略プランニング」である。これはきわめて広く普及しているマネジメント手法のひとつと言っていいだろう。具体的には、決まった手順に従って戦略をつくることを目指す。しかし、残念ながら、「戦略プランニング」という言葉にはそもそも矛盾がある。
ヘンリー・ミンツバーグ