「ホンダキラー」として登場したサターン GMの栄光と凋落 歴史アーカイブ
個性的な設計と生産方式で「輸入車」に対抗
「サターンは、ゼネラルモーターズが国内メーカーとして長期的に競争力を持ち、生き残り、成功するための鍵である」と、1985年1月にロジャー・スミス社長は豪語した。 【写真】打倒「日本車」を掲げた個性派ブランド【サターンSL/リレイ/オーラを写真で見る】 (5枚) この新ブランドの構想は、米国の自動車業界が苦境に立たされていた3年前の夏、シニアエンジニアのアレックス・メア氏によってひそかに練られていた。 サターンという名称は、ソ連に先駆けて月面着陸を果たしたロケットに由来しており、愛国的な使命を暗示している。 米国メーカーは国内市場シェアを失いつつあった。1973年と1979年のオイルショックにより燃料価格が大幅に上昇したため、消費者はデトロイトの燃費の悪いクルマから、小型で効率的な日本車へと乗り換えた。同時に、日本車は運転しやすく、高品質であるという認識も広まった。 GMの米国での年間販売台数は、1982年までの4年間で34%減少しており、クライスラーは27%、フォードに至っては47%も落ち込んでいた。 サターンを成功させることは、まさにロケット科学に匹敵する難題だった。当時のAUTOCAR誌に掲載された記事によると、それまでの「完全米国製の輸入車キラー」という挑戦は「不名誉な技術的および販売上の失敗」に終わっており、日本から輸入されたクルマですら、米国製のものよりも約1700ドル安いという状況だった。 サターンは単なるGMの新ブランドとしてではなく、2万人を雇用する事実上の独立企業として設立される予定で、約43億ドルの投資が計画された。 これには、GM史上最大の生産施設の建設費用も含まれていた。テネシー州スプリングヒルの35万平方メートルの敷地に、部品の輸送コストを抑えるために自動車生産のほとんどの工程をカバーする設備を揃えたのだ。これは、「ジャストインタイム方式における米国のコスト効率の限界に近い」体制だった。 また、品質保証や労使間の協調的関係についても、GMとトヨタの合弁事業であるNUMMIから学んだ教訓を実践することになっていた。 同様に、販売コストを削減するために、少数のディーラーで広範囲をカバーする手筈だった。 1990年に市販モデルの発売準備が整う頃には、そのような野心的な計画は縮小していたが(投資額は約28億ドル、6000人の雇用創出)、それでもGMの新社長であるロイド・ルイス氏は「組織全体の競争力向上に活用できる」と信じていた。 AUTOCAR誌は、Sシリーズのセダンとクーペが発売された1年後に再び取材を行った。「この最初の期間は厳しいものだった。まず、クルマに対する反応が冷ややかだった。生産台数の伸び悩みが続き、最近では安全性に関するリコール問題も発生した」 サターンが打ち出した大きな革新、すなわち、錆びにくく凹みにくい熱可塑性樹脂のボディをスチール製スペースフレームに組み合わせるというユニークな構造も、事態を好転させることができなかった。 さらに、湾岸戦争が勃発したばかりで、米国は深刻な不況に陥り、新車販売台数は30%も減少した。 しかし、明るいニュースとしては、サターンがJDパワーのディーラー満足度調査で年間トップに輝いたことが挙げられる。これは、その後の数年間、何度も繰り返し達成した偉業だ。 期待していた顧客層を獲得することもできた。ホンダ・シビックやトヨタ・カローラを購入するはずだった人々(50%が「外車」を下取りに出した)や、比較的若いドライバー(平均年齢41歳)である。 サターンは10年間にわたって繁栄を続け、日本市場にも進出した。Lシリーズに移行する直前の1999年には、販売台数が200万台に達した。 そして、腐敗が始まった。サターンは既存ブランドに必要な資金を食いつぶしているとしてGM内部で反感を買っており、SUV人気が高まると、状況はさらに悪化した。 経営陣はサターンに、従来型の保守的なアプローチを望んだ。例えば、樹脂製ボディは生産に時間がかかり、パネル間の継ぎ目も大きく見栄えが悪かった。 2004年、サターン独自の労使協定が解消され、従業品は他のGMの従業員と何ら変わりなくなった。2007年には、スプリングヒル工場がスチール製ボディの生産に切り替えられた。 新世代のサターンは、シボレーやポンティアック、オペルなどと比べても特に変わり映えしない、無個性のブランドとなった。 サターン独自のセールスポイントは消えてしまい、2009年に大不況の始まりによってGMが破産すると、ハマー、ポンティアック、サーブとともに檻に入れられてしまった。もし、個性を貫き通すことができていたら、あるいは……。
クリス・カルマー(執筆) 林汰久也(翻訳)