静岡・沼津の駅弁には、なぜ「桃色」の紐がかけられているのか?
●徳川家の旗本として、江戸から沼津へ!
―宇野家のルーツを教えて下さい。 宇野:宇野家は徳川家の旗本でした。大政奉還のあと、15代将軍の徳川慶喜と一緒に静岡へやって来ました。もともと、沼津は(老中も出した)水野家が治めていたところで、明治時代のはじめごろには、駿府藩(静岡藩)を担っていた徳川家が沼津兵学校を設けて最前線と位置付けていたようです。桃中軒初代の宇野三千三(みちぞう)は、江戸にいたころ、小山家から入った人物で、家臣団と一緒に沼津にやって来たと聞いています。 ―「桃中軒」という屋号の由来は? 宇野:初代の宇野三千三が、いまの沼津市島郷(とうごう)に居を構えていたことに由来します。当時、宇野家はお茶やお菓子を出す茶屋をやっていたと言います。「島郷」は昔、桃の郷と書いていまして、昭和の終わりごろまで桃畑があったのを憶えています。いまも国道414号の近くに少し残っているそうで、一部に桃の字を使った地名が残っている場所がありますね。ここからいまでも駅弁「御弁当(幕の内)」には「桃色」のしで紐を使っています。
●「おにぎりとたくあん」から始まった沼津駅弁!
―明治24(1891)年4月の沼津駅構内営業参入、その経緯を教えて下さい。 宇野:一部、推測もありますが、旗本は部下となる一族郎党を従えていました。そんな士族の事情があり、いろいろな形で地域のリーダーとして動いていたようです。当時行われた市内の公園建設の募金活動でも、文献に三千三の名前があります。そこで、構内営業の話があったときも、宇野さんにお任せしようとなりまして、個数はわかりませんが、「おにぎりとたくあん」を5銭で販売したといいます。 ―ただ、初代の三千三さんは、不慮の事故で亡くなってしまったそうですね。 宇野:明治29(1896)年12月1日、沼津駅構内で列車にはねられ52歳で亡くなりました。当時は、いまのようにマナーを守る習慣があまりなく、車内でお茶を飲んだあと、陶器製の汽車土瓶をそのまま窓から投げ捨ててしまう乗客が多かったんです。このため三千三は、自ら線路に捨てられた土瓶を拾う清掃活動をしていました。しかし、この日は汽車が動き出したのに気付くのが遅れ、触車事故に遭ってしまったんです。