山手線ならぬ「川手線」なぜできなかった? “下町環状線”の可能性を秘めていた東武の延伸構想
東京の西を回る山手線、では東は?
東京には複数の「環状線」があります。筆頭は2025年に環状運転100周年を迎える「山手線」でしょう。地下鉄にも「都営大江戸線」があり、道路では首都高速の「都心環状線(C1)」「中央環状線(C2)」などがあります。 【地図】下町側の南北鉄道構想と「川手線」妄想ルートを見る 環状線と言えば都心を一周するイメージです。確かにそれは間違いないのですが、昭和初期までの都心「東京市15区」の地図に重ねてみると、都心環状線は「中枢」、大江戸線は「市内」、中央環状線は「市域」の外周部を網羅しているのに対し、環状線の代表格である山手線は西に偏っていることが分かります。 山手線は約140年前の1885(明治18)年、日本鉄道(高崎線)赤羽駅と官設鉄道(東海道線)品川駅を接続するバイパス路線として開業しました。北関東から横浜港への貨物輸送を目的として建設されたため、用地買収がかさむ市街地を避け、何もない「市外」を走ることになりました。 しかし1903(明治36)年に池袋~田端間が開業し、1909(明治42)年に上野~新橋間で電車運転が始まると、都市鉄道としての性格が強まります。東京の市街地は明治後期まで「江戸」の範囲を越えませんでしたが、明治末から大正初期にかけて商工業が発展すると、山手線沿線の市街化が進みました。 決定打となったのが都心への乗り入れです。厳密には、山手線は田端~新宿~品川間を指し、東京~田端間は東北線、品川~東京間は東海道線との位置づけです。江戸以来の都心である新橋~上野間は長らく鉄道がありませんでしたが、1910(明治43)年に新橋~呉服橋(仮駅)間、1914(大正3)年に有楽町~東京間、1919(大正8)年に東京~神田間と都心方面に延伸しました。 1925(大正14)年の神田~上野間開業で都心の南北軸がつながり、山手線から内回り・外回りのどちらからでも都心に直通できるようになりました。つまり山手線が西に偏っているのは、池袋・新宿・渋谷などを結ぶ本来の「山手線」と、都心の南北軸から構成される、東京市の西半分をカバーする路線だから当たり前のことなのです。では東半分である下町側には、なぜ山手線ならぬ「川手線」ができなかったのでしょうか。