最も愛されながらも“史上最弱横綱”として引退した稀勢の里の悲劇はなぜ起きたのか?
日本人横綱としてファンと相撲界全体の期待を一身に背負った稀勢の里が、初場所で初日から3連敗を喫し16日に引退を表明した。 「横綱として皆様の期待にそえられないということは非常に悔いが残りますが、私の土俵人生において一片の悔いもございません」 大好きな劇画「北斗の拳」の登場人物ラオウの台詞に自らの決断理由を重ねた。 生真面目な性格と稽古での努力。がっぷり四つに組む横綱相撲ではなかったが、武器である左差しからのおっつけ相撲が勝ちパターン。怪我に苦しみながらも、逃げない姿勢は、ファンの共感を得た。だが、横綱としては、数々の不名誉なワースト記録を更新することになった。 2017年の夏場所から8場所連続休場は年6場所制が導入されてからのワースト記録で、当然、横綱休場率の.833も、若乃花の.545を抜いて最下位。昨年の9月場所から最後の栃煌山戦で完敗するまでの8連敗(不戦敗除く)も貴乃花の7連敗を抜くワースト記録。横綱としての勝ち星36勝も三重ノ海の55勝を下回るワーストとなった。横綱勝率の.500も栃ノ海の.596を抜いて同じく最下位。横綱在位12場所での引退という短命度は、昭和以降で歴代10位だが、“史上最弱横綱”と呼ばれても仕方がないだろう。 なぜ、こういう悲劇がおきたのか。 引退会見で、稀勢の里は「怪我をする前の自分に戻ることはできなかった」と言ったが、やはり横綱昇進直後の2017年の大阪場所の13日目の日馬富士戦で負った左上腕部、左胸の大怪我の影響が大きいだろう。稀勢の里は、怪我を押して最後まで相撲を取り続けて感動的な逆転優勝を果たしたが、次の夏場所も休場せず土俵に立ちながら、故障を治療するという中途半端な戦い方を選択した。結局、10日目が終わって途中休場。次の名古屋場所では左足首を負傷、ついに9月場所は全休となった。結局、怪我の治療に専念せずに場所に臨むため、稽古量が落ちて体重が180キロを越えるまでに増え、また故障を再発させる温床を作り、得意の相撲を固めることができないまま勝てないという負のスパイラルに入った。九州場所では、今度は腰を痛め、金星を5つも配給する最悪の相撲で9日目を終え4勝5敗でまた途中休場した。 横綱審議委員会(横審)から異例の「激励決議」を受けて、進退をかけて臨んだ今場所は、相撲勘を取り戻すのに絶好の場所前巡業をすべて休んで調整した。 故郷の茨城の巡業にも出なかった。激しい稽古での怪我の再発を恐れての調整法だったのかもしれないが、部屋内だけの稽古に終始する“温室栽培”のような調整で、横綱の輝きを取り戻せるほど甘い世界ではなかったのである。 いろんな意見があるが、“たられば”で言えば、2017年の春場所で故障した時点で、すぐに怪我の完治を最優先させるべきだったのだろう。19年ぶりの日本出身横綱の誕生で、貴花ブーム以来の相撲人気が復活。高まる期待に稀勢の里が簡単に休める環境にはなかったのかもしれないが、大関時代には、31場所で休んだのはたった1日という“鉄人”だった稀勢の里は、大きな怪我に戸惑い、復帰プランを練ることは難しかった。しかも肉体は30歳を超え、メンタルも決して強くはない。それらの状況を考えれば、周囲が止める、或いは、先を見据えてコントロールすべきだったのだ。 「鳴戸親方がご存命ならこんなことにならなかったのかも」という声が関係者の間から聞かれる。 稀勢の里が師と仰ぎ、横綱の基礎を厳しい稽古で作りあげてくれた鳴戸親方(元横綱・隆の里)は、2011年11月に稀勢の里の大関昇進を見ぬまま帰らぬ人となった。 後を受けた田子ノ浦親方は、現役時代、前頭8枚目止まりの力士だった。まだ42歳と若く、稀勢の里の怪我を考慮して復帰プランをしっかりと描くまでのマネジメント能力が足りなかったのだろう。 日本出身横綱不在の状況も悲劇の原因になった。 2016年は、6度も綱取りに挑みながら準優勝が4度。一度も優勝できなかったが、年間最多勝を受賞した。 「2場所連続優勝、或いは、それに準ずる成績」が、横綱昇進の内規だが、横審は、2017年初場所を「内容と優勝」を条件に綱取り場所だと宣言。結果、稀勢の里は14勝1敗で優勝、横審は全会一致で横綱昇進を決めた。 日本人横綱待望論が高まっていたが、横審は常に“一線”を守りハードルを下げることはしていなかった。しかし、その場所は日馬富士、鶴竜の2横綱が途中休場しており、しかも「2場所連続優勝」ではなかった。本来ならば、もっと議論が必要だったのかもしれないが、世論と人気が横綱稀勢の里の誕生を後押ししていた。横審が非難されるべきは横綱に昇進させたことではなく、休場が続いた間の“温情”にあったのかもしれない。 ワースト記録と休場を繰り返して、横綱の権威を失墜させた。昨年の9月場所で10勝5敗と復活したが、権威を守るために横審も「激励決議」の前に、もっと厳しい姿勢をどこかで示すべきだった。 結果的に稀勢の里はプレッシャーに潰されることになったのだから、日本人横綱不在の状況は、彼にとってみれば、悲劇だったのかもしれない。 しかし、最後の最後まで稀勢の里に対するバッシングや非難の声は起きなかった。 それは、「絶対に逃げない」という姿勢を守った稀勢の里の真摯な姿をファンの誰もが認めていたからだろう。横綱は憎まれるほどの強者であって同情されるようになったら終わりとの意見もあるだろう。 だが、歴代ワースト記録を更新する“史上最弱横綱”であっても、彼が史上最も愛された横綱の一人だったことは間違いない。稀勢の里は胸を張って土俵を降りればいい。