米軍が血眼になって探した特殊部隊「731部隊」隊長の「発明品」発見…!
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が13刷ベストセラーとなっている。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
特殊部隊「731部隊」の……
「首なし兵士」の壕内やその近辺の壕の土中からは、さまざまな物品が出てきた。 食器や、衣服のボタン、万年筆、一升瓶など。食器は星か錨のマークが入っているものが多かった。星マークは陸軍、錨マークは海軍のものだと、詳しい団員から教わった。そのいずれのマークもない食器もたまに出土した。これらは1944年夏に本土に強制疎開となり、島民不在となった家から借用したものではないか、と思われた。戦前の硫黄島には約1200人の島民が暮らしていた。 硫黄島を占領した米軍が血眼になって探したという、あの歴史的人物の発明品も出てきた。細菌兵器開発の特殊部隊「731部隊」隊長だった石井四郎軍医中将が開発した「石井式濾水機」だ。汚水を濾過して飲料水にする装置で、渇水の硫黄島の飲み水確保策として導入されたとの記録が残る。 東京新聞が2020年8月に報じた記事「七三一部隊 伝える濾水機」によると、国内で現存が確認できるのは数台という。こうした希少な軍用品が出てくる硫黄島は、タイムカプセルそのものだと思う。
記名の遺留品の重要さ
捜索現場でスコップを振るうと、たまに「コツン」と金属を叩いた音がすることがある。ある時、丸みを帯びた金属の物体の一部が土から出てきた際、「なんだろう」と言いながらスコップの先で「コン、コン」と二度叩いた。この時、隣で作業していた比較的、無口な団員から「やめてくださいよ……」とやんわり注意された。「不発弾だったらどうするんですか……、爆死の運命を共にしたくないですよ……」。 その金属製の物体の正体は水筒だった。逆さまにして振ると、塩のような白っぽい固形物が出てきた。硫黄島は渇水の戦場だった。この持ち主は海水を入れていたのだろうか。海水は体内の水分よりも塩分濃度が高いため、飲むと体は濃度を戻すために、さらに水分を欲するようになる。つまり飲むほど喉が渇くのだ。それでも渇きに耐えかねて海水をさらに飲み、もがき苦しみながら死んだ兵士もいたという、生還者の証言を読んだことがある。 出土した雑品は捜索現場の脇に放置されるのが常だった。僕は水筒を雑品の山の近くに置いて、作業を再開した。それから10分ほどして「あっ!」と驚いた声が雑品の山の方向から聞こえた。作業の支援に来ていた自衛隊員が、黒く変色した水筒の表面の一部を何げなく指でこすったところ、浅く刻まれた文字列が出てきたのだった。駆け寄って見せてもらった。「平金 二ノ五」と読めた。 平金は所有者の名字に思われた。これまで誰も関心を示さずに放置されていた水筒は、わずか10分ほどで価値が急上昇したかのように、大切に扱われるようになった。副団長は水筒をビニール袋に入れ、見つかった日付と場所を袋に記した。 なぜ水筒への対応が変わったのか。理由は、遺骨の身元特定の手がかりになるからだ。国は長年、収集団によって収容された遺骨を東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納めてきた。しかし、DNA鑑定技術の向上に伴い、2003年度から、記名の遺留品と共に見つかった遺骨については、遺族が特定できる可能性があるとみて、DNA鑑定を行う方針に舵を切った。つまり、記名の遺留品の有無が、その遺骨が家族の元に帰れるか否かの運命の分かれ目となる第一関門なのだ。 ちなみに、この現場付近からは「中濱」と記された印鑑や、「カミナガ」とのカタカナが書かれた靴が発見された。ただ、戦後70年以上を経た現在、遺留品は著しく風化したものが多く、名前入りの品が見つかることは極めて少ない。つまり、遺骨の大半はせっかく収容してもDNA鑑定の対象外になってしまうのだ。こうした現状を疑問視する声が近年、遺族側から高まり、厚労省は2021年度から原則すべての遺骨の鑑定をするという方針に転換した。 つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)