「内助の功」三笠宮さまに寄り添われ 空襲では宮邸焼失も 三笠宮妃百合子さま
その10年後、結婚70周年の23年10月22日に先立っては、ご夫妻それぞれが文書でご感想を発表し、お互いへの感謝をつづられた。こうしたご感想のご公表は、三笠宮さまが95歳、百合子さまが88歳だったこのときが初めてのことだった。
三笠宮さまは「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」「妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない」などとつづり、戦中・戦後の激動の時代をともに過ごし、支え合ってきた妻への思いを込めていた。
戦前、陸軍に在籍していた三笠宮さまが、教材のレコードを聴いて中国語を勉強する際には、百合子さまがレコードの操作をご担当。戦後になり、三笠宮さまが東大文学部で歴史学を学んでいたころには、公務で参加できなかった授業の分のノートを友人から借りると、百合子さまが深夜まで写されていたという。
三笠宮さまは「百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」と感想を記述。百合子さまも「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」と最上級の感謝をつづり、ご夫妻の強い絆を示されていた。
また、百合子さまの知人らによると、百合子さまは宮邸で若いころの三笠宮さまが乗馬をしている写真を「凛としているでしょう」とうれしそうに披露されることもあったという。三笠宮さまの薨去後も、外出が可能な間は月命日に、三笠宮さまが葬られている豊島岡(としまがおか)墓地(東京都文京区)を参拝されていた。