みずからの「死後の繁栄」まで見据えていた蔦屋重三郎が“江戸のメディア王”に成り上がれた7つの理由
このような年長世代が蔦重に快く協力してくれたからこそ、耕書堂は成功したといえる。これは蔦重が彼らに礼をつくし、当時余技扱いだった戯作や浮世絵を作品として評価することで、人間的に信用を得ていた証拠だろう。 蔦重の同世代といえば、御家人出身にして狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)が1歳上、旅籠屋の子に生まれた狂歌師の宿屋飯盛(やどやのめしもり/石川雅望)が3歳下で、遠縁の可能性もある喜多川歌麿もそのあたりだ。
南畝と飯盛は狂歌師集団を率いて蔦重と密接な関係を持ち、狂歌絵本のヒットなど蔦重の商売の安定に大きく貢献した。そのとき、蔦重はみずから狂歌師となり「連」に加わることで信用をつかんだ。 それに対して、同世代の歌麿は蔦重の束縛を嫌ったか可能性を試したかったのか、ライバル店に移った時期もあったが、同じ喜多川(北川)という苗字を持ち、世話をしてきた旧知の才能ある絵師だった。 そこで、蔦重から離れつつあった歌麿に対抗させるため、出自や年齢が不明の東洲斎写楽をプロデュースし、それによって大首絵という浮世絵のジャンルが大いに盛り上がったことは結果オーライだった。
■どうしても押さえておきたかった「次の世代」 また、次世代としては質屋の子だった山東京伝が11歳下で、出自不明の葛飾北斎もそのあたり。地方武士出身の十返舎一九が15歳下、武家奉公人出身の曲亭馬琴が17歳下となる。 蔦重がぜひとも押さえておきたかった人気作家・絵師が京伝だ。寛政の改革による弾圧後も、蔦重は京伝を叱咤激励して戯作者・絵師を続けさせた。 また、北斎は歌麿や写楽の次世代として期待していた絵師で、十返舎一九や曲亭馬琴は作者として独立するまで仕事を振り面倒を見るという関係だった。
以上のように、蔦重は世代や出自、みずからとの関係性に応じ、個々別々のやり方で人材登用・発掘・育成を行った。 蔦重はさまざまな人間に信用されるだけの才知や度量があり、信義や筋を通せる魅力的な人物だったと想像できる。
伊藤 賀一 :「スタディサプリ」社会科講師