みずからの「死後の繁栄」まで見据えていた蔦屋重三郎が“江戸のメディア王”に成り上がれた7つの理由
その後、6年限定の「寛政の改革」で、世は引き締められ出版業界は弾圧されるが、その反動で改革を放棄した50年間におよぶヤケっぱちの「大御所政治」が始まり、出版業界はさらなる全盛期へ驀進する。 その初期に蔦重は出版業界の土台を築いた上で亡くなっている。以上のことは運や縁ではあるが、偶発的なマイナスの出来事が起きた不運のときにこそ、それをプラスの幸運に変える明るさや新しい発想、一度つかんだ縁を離さない握力の強さが、吉原というグレーゾーン出身の一庶民だった蔦重を成り上がらせたポイントであろう。
※外部配信先では図表を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください 企画編集・制作を行う版元でありながら、卸売問屋や小売として流通の末端にまで関わった蔦屋重三郎は、その存在感が増すにつれて、広告や宣伝を含めた「総合メディアプロデューサー」としての顔を強めていく。 そうなると、事業を広げていくには、すでに名声のある戯作者・狂歌師・絵師との関係を深めつつ、(彼らからの紹介を含めて)新人を発掘し、さらに未来の人材を育成していかなければならない。そのため、22歳のときに起業した町人出身の蔦重は、武士や町人の年長世代たちとうまく付き合っていく必要があった。
旗本の家に生まれ、秋田藩士の養子となった15歳上の朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)は、蔦重の恩人といえる。マルチな才能があった彼なくして商売が軌道に乗ることはなかった。 安永6(1777)年、すでに洒落本や黄表紙を他社から出版していた喜三二に、蔦重が華道書『手毎の清水』の序文(まえがき)と跋文(あとがき)を依頼したのが関係の始まりだった。吉原に店を構える蔦重と、江戸藩邸の留守居役として吉原にて幕府や他藩との交流が盛んだった喜三二は、WIN -WINの関係にあったはずである。
そして、恋川春町(こいかわはるまち)もまた小島藩出身の武士で、蔦重より6歳上だった。天明3(1783)年、親友だった朋誠喜三二と関係が深い耕書堂から『猿蟹遠昔噺(さるかにとおいむかしばなし)』を刊行して以来、蔦重との交流が続いた。 ■「年長世代」が支えてくれた耕書堂の成功 町人出身では、日本橋小伝馬町の本屋の子に生まれた11歳上の北尾重政(きたおしげまさ)が、版元としての蔦重のデビュー作となった『一目千本』以来、耕書堂の挿絵を支えた絵師で、かつ往来物の作者でもあった。浮世絵師として喜多川歌麿や弟子の山東京伝(さんとうきょうでん/北尾政演)や鍬形蕙斎(くわがたけいさい/北尾政美)に大きな影響を与えている。