みずからの「死後の繁栄」まで見据えていた蔦屋重三郎が“江戸のメディア王”に成り上がれた7つの理由
また、この成功を期に日本橋に進出する際、両親を呼び戻したことも度量の大きさを示す「いい話」として評判になっていたはずだ。 ■「競合相手の失敗」や「流行」を活かし成り上がる そして、蔦重は「競合相手の失敗」を活かした。吉原細見に関する本は、当初、鱗形屋(うろこがたや)孫兵衛の鶴鱗堂(かくりんどう)版が有名で、蔦重の耕書堂はその小売や編集を請け負っていたにすぎない。しかし、鱗形屋の手代(使用人)が起こした重板(じゅうはん/同じ物を改題して無断で出版すること)事件で出版が一時停止となった間隙を突き、蔦重は版元の事業に乗り出している。
また、蔦重は江戸における「流行(ブーム)」を活かした。 安永期(1772~1781年)には、唄浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)が大流行し、蔦重は唄浄瑠璃の正本・稽古本の出版を手掛けている。また、天明期(1781~1789年)には狂歌が大流行したが、蔦重は狂歌と浮世絵を合わせた「狂歌絵本」の出版を手掛けている。 さらに蔦重は「業界への弾圧」をも活かした。寛政の改革による出版統制令の影響で、戯作の黄表紙や洒落本が弾圧されて発売禁止処分となり、狂歌絵本も一時的に停滞し苦しい立場となった。
しかし、蔦重は浮世絵や専門書、学術書に活路を見出し、弾圧前に劣らず話題となっている。 ■死後の繁栄も見据えたスムーズな「世代交代」 そして、蔦重は最終的に「みずからの死」までも活かした。 現代でもいえることだがカリスマ経営者のいる有名企業の世代交代は難しい。また、蔦重は特段長生きしたわけではなく、当時の平均寿命程度の年齢で亡くなっている。しかし、死を前にして「二代目蔦屋重三郎」たる番頭の勇助に店舗や版権をスムーズに移行したことで、その死後も蔦屋の屋号は隆盛を極めていった。
ここまで蔦重の「成功のひみつ」をいくつか挙げたが、総じていえることは「時代背景」そのものを活かしたことだ。 耕書堂を創業した安永元(1772年)は側用人の田沼意次が老中を兼任し「田沼時代」が本格的に始まった。「年号は安く永しと変はれども諸色高直今にめいわ九(年号〔元号〕は明和 9 年から安永元年へと変わったが、諸物価は高く、今まさに迷惑している)」と狂歌に詠まれるような世相だった。江戸の人々は物価高に振り回されながらも、ゆるい世を謳歌して、出版業界は隆盛を迎える。