81年目の謝罪 ブラジル サントス事件 第二次世界大戦の悲劇
先の大戦中に多くのウチナーンチュ(沖縄にルーツを持つ人)をスパイと疑い街を追い出した「サントス事件」について、2024年7月、ブラジル政府が正式に謝罪した。 81年目の謝罪までには、人権迫害を無かったことにしてはならないというウチナーンチュたちの強い意志と行動があった。 81年目の謝罪
語られなかった事件の真相 「私たちは敵だった」
三線の音が鳴り響くバス。向かっている先はブラジルの首都ブラジリア。 日系二世の佐久間チエコさん。2021年に夫で沖縄県系人のホベルトさんを亡くした。 佐久間チエコさん: 私は夫の代わりに(謝罪審議に)行きます 81年前の1943年、7歳だったホベルトさんは生まれ育ったサントスで強制退去事件に遭遇した。 ブラジル社会で生きていくために多くの人が口を閉ざしてきたこの事件。当事者として、2018年に名乗り出たのが、佐久間ホベルトさんとチエコさん夫妻だ。 佐久間チエコさん: まだ家にいるのに、家中のものを壊されたり物を奪われたりしました 佐久間ホベルトさん: 私たちは“敵”だったのですから 第二次世界大戦中の1943年7月8日。ブラジルの港湾都市・サントスで起きた事件。 およそ6500人に及ぶ日本人が、一夜にして強制退去させられた。 事件の背景にあったのは、ブラジルの貨物船がドイツ軍の潜水艦に沈められたことだった。 ブラジル政府は、サントス沿岸に住む日系人など枢軸国出身者にスパイがいると疑いの目を向けた。
政府への謝罪要求 重い扉を開く時
2016年8月、サントス日本人会館で事件に関する585家族の名簿が見つかった。 強制退去させられた人々の実に6割が沖縄からの移民だったことがわかった。 事件を重く受け止めた沖縄県人会は、証言を集めはじめた。 この取り組みは、サントス事件に対する謝罪を求める運動へと発展していった。 宮城あきらさん : ブラジルの連邦政府に謝ってもらおうと。謝罪をしてもらうと。そういうことを政府に要求しようと 宮城あきらさん: 謝ってもらおうと、県人会と私たちがやっていますけど、それについて比嘉さんはどう思われますか 比嘉さん: それでいいと思います。将来のために、これからの孫やひ孫たちが分かるために県人会がやってくれるのはありがたく思います 謝罪運動が始まった2018年以降、ブラジルでは政権交代が続き、謝罪も政治的な動きに左右された。 2024年7月23日、3年前に亡くなった夫・佐久間ホベルトさんに代わって、チエコさんが謝罪審議に出席するため首都ブラジリアに向かっていた。 佐久間チエコさん: 夫は事件のことを決して忘れなかった。いつも私に「誰も事件のことを知らないからとても嫌だった」と言っていた。日系のコミュニティでも、沖縄のコミュニティでも、誰も歴史について知らなかったので、誰もコメントもしなかった。夫はサントスにいた多くの人たちと一緒に事件を経験したけど、折り合いをつけられなかった 多くの県系人がスパイ視された、サントス事件から81年。ついに謝罪審議が開かれる日がきた。 事件の関係者の多くが駆けつけた。 恩赦委員会(アネスチア)は、1946年から続いた軍事政権下で起きた政治迫害に対する審議を行っている。 今回の戦時中の日系人の人権弾圧に対する審議は、異例中の異例だった。 戦中・戦後の日本移民コミュニティ迫害に対する政府謝罪の審議の結果、12対0で可決された。 エネア・アルメイダ委員長: この厳粛な瞬間にアムネスティ委員会評議会の決定結果を宣言したいと思います。ブラジル政府は戦争迫害の許しを求めます。ありがとう
子や孫のために 移民の誇り胸に
世界で二度と同じようなことがないよう願いを込めて、島人ぬ宝がうたわれた。 佐久間チエコさん: 夫とはいつも一緒に、ここにいます。ここでうれしそうに感動して泣いています。こんなに長い間、80年以上もこの日が来るのを待ち望んでいたのですから。7歳のときに経験したことで、夫は父や母とともに苦しんできました。誰もが言葉にできないくらい美しかったと思います。その瞬間ずっと泣いていました この日の夕焼けは、政府と日系移民和解の贈り物のようだった。 (沖縄テレビ)(松林要樹ディレクター)
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