「きみに逢う以前のぼくに遭いたくて」日本を代表する歌人が、亡き愛妻に捧げた歌碑にこう刻んだ理由
大河ドラマ「光る君へ」に登場する平安貴族たちが「歌」で思いを告げていたのはよく知られる。さすが貴族はやることが庶民と違う、自分なんかはとてもそんなことはできない。そう思う方もいるだろうが、現代においても歌人同士であれば、「歌」によって愛の告白が行われることもあるようだ。 【写真を見る】乳がんのため亡くなった「妻・河野裕子」 妻である歌人の河野裕子さんとの青春時代を描いた永田和宏さん(京都大学名誉教授)の著書『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』は、ドラマ化もされた作品である。永田さんは細胞生物学者であり、また歌人でもある。 歌人同士のカップルによる思いの交換とはいかなるものだったのか(2022年配信記事をもとに再構成しました)。 ***
まだ京都の借家に住んでいた頃、それは2階を借りていたのだそうだが、(河野裕子の)母の君江が鍋に湯を抱えたまま、階段の上で躓いてしまったのだそうだ。その鍋は、そして熱湯は、ちょうど階段を降りていた裕子の背に、そのまま降りかかったのだと言う。大火傷である。彼女が4歳の頃のことであった。 貧しく、その日を暮らすことだけで精一杯だった家族。その幼い子に大きな火傷を負わせてしまった君江を思うと、私は今でも胸が痛くなる。治療も十分にはできなかったのだろう。君江には、毎晩、裕子の傷跡を撫でて、あやまりながら一緒に寝るしかできなかったに違いない。 そんな母親の気持ちをもっともよくわかっているのが裕子であった。母に対して恨みがましい思いはまったくなく、彼女にとって母親は、終生なにものにも代えがたい大切な存在であった。 私に、その火傷の傷跡について話をするのは、余程の勇気が要ったのだろう。思い切って話をした夜のことは、翌日の日記に28ページにもわたって書かれている。
その日は、逢った最初から、なぜか私も彼女もほとんど口をきいていなかった。喫茶店「再会」から平安神宮まで歩き、そのバス停から滋賀交通のバスで帰るはずだった。私が乗車口から押し込むようにバスに乗せようとし、彼女が抗ってどうしても乗らず、とうとうバスが行ってしまった。