三笠宮妃百合子さまご逝去 4つの時代を見つめて…「育児日誌」の思い【バンキシャ!】
三笠宮妃百合子さまが15日、老衰のため亡くなられました。皇室最高齢の101歳でした。赤坂御用地内の三笠宮邸では、16日から一般の弔問記帳が始まりました。激動の時代に5人のお子さまの母として、育児日誌につづられていた百合子さまの思いとは。【バンキシャ!】 ◇◇◇ 16日、東京・赤坂御用地。 バンキシャ 「まもなく一般の方の弔問記帳が始まります。15分前ですが、すでに人が並び始めています」 15日、老衰のため101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さま。16日から一般の記帳が始まりました。 生前ゆかりのあった人など多くの人が訪れ、百合子さまをしのびました。 ご遺体と対面してお別れを告げる「拝訣(はいけつ)」などが行われ、儀式に先立ち、天皇皇后両陛下や上皇ご夫妻が弔問のため訪問されました。 昭和天皇の弟である三笠宮崇仁さまの妻であり、天皇陛下の大叔母にあたる百合子さま。三笠宮さまを75年にわたって支え、5人のお子さまを育てられた母でもありました。
百合子さまは長きにわたり女性皇族として、様々な公務を務められてきました。 百合子さま(1987年) 「ご苦心とご努力の結果、今日の日を迎えられたことを」 和装文化の普及などに取り組む「民族衣裳文化普及協会」の名誉総裁のほか、母と子の保健や福祉の課題に取り組む「母子愛育会」の総裁は60年以上、務められました。 百合子さま(2010年) 「健康で明るい地域づくりを推進されますよう、いっそうのご活躍を希望いたします」 16日、バンキシャ!が出会ったのは、百合子さまと30年以上親交があったという水島博子さん。ご家族の仲の良さを感じたエピソードを話してくれました。 民族衣裳文化普及協会 水島 博子さん 「亡くなられた高円宮殿下がギターを弾かれてハッピーバースデーをみんなで歌ったんですよ。気持ちがひとつになっているご家庭なんだなっていうのを今、改めて思いました」 百合子さまが皇族としての道を歩み始められたのは、実に83年前のことでした。1941年、百合子さまは三笠宮崇仁さまと18歳で結婚されました。 アナウンサー 「高木百合子姫には大垂髪の御髪に、お表衣のお装いもひときわ美しくご親族、その他のお見送りの内を赤坂区青山高樹町ご実家から、御順路を宮城へ参入させられました」 三笠宮さまとの結婚後は、激動の時代を過ごされました。 三笠宮さま(1992年) 「結婚直後に戦争が始まりましたから、新婚生活、即、戦時生活でした」 結婚直後に太平洋戦争が開戦。空襲でお住まいが全焼し、まだ幼い子どもを抱いて命からがら防空壕へ逃げられたこともあったといいます。 三男二女、5人のお子さまを育てられた百合子さま。 三男・高円宮さまの伝記の中に、百合子さまが書かれた日誌がありました。高円宮さまが初節句を迎えた日には、こうつづられています。 「高円宮憲仁親王(読売新聞社)」より育児日誌「暁乃柊」 ――めでたく初節句。鯉のぼりの竿に上の子たち昇るのが楽しみ。 実際の日誌の1ページは、びっしりと文字で埋め尽くされています。右上には「何をしても可愛い」という言葉も。100歳の誕生日に際して、こう振り返られました。 百合子さま(2023年) 「家族一人一人の歩みが分かるように写真アルバムを作成したり、5人の子供たちの育児日誌をつけたりと、時間に追われながらも充実した毎日を過ごしておりました」