「最凶のがん」と言われる膠芽腫の治療法をめぐる深い問題…「承認」の危機を描き出す一冊(レビュー)
前作『アルツハイマー征服』では、難病に向き合う医師と患者、そして製薬業界の波瀾万丈の現場を描き出したノンフィクション作家の下山進氏が、ふたたび医療の世界に切り込んだ。このたびは、「最凶のがん」とも言われる「膠芽腫」の治療法がテーマだ。 本書のもともとのねらいは、がんの標準療法のその先を探ることだったという。標準療法のその先―それは、怪しげな代替療法がうごめく闇の世界でもある。しかしそれはまた、明日の標準療法をめざして研究者たちが懸命の努力を続ける、最先端の科学の領域でもあるのだ。そんな先端的新療法として、本書では次の三つを取り上げる―遺伝子を改変したウイルスを利用する「ウイルス療法」、光に反応する物質を利用する「光免疫療法」、そして原子炉(のちには加速器)を利用する「ホウ素中性子捕捉療法」だ。 このうち膠芽腫に対し現在承認されているのは「ウイルス療法」だけである。そうなった経緯を追ううちに、著者は、日本の医療が直面する重大な危機を目の当たりにする。承認は、公正に行われているのだろうか? 治療法が承認されれば開発者の懐に金が入る場合、その研究者の報告は信用できるのだろうか? 残念ながら、研究者個人の良心に頼るだけではだめなことは目に見えている。 本書に登場する研究者の一人は、治療法を開発した研究者に金銭的報酬が期待できるようになっていること、それ自体に否定的な立場だ。清廉潔白な意見である。だが、大学の研究者が起業するのは今や世界的趨勢だし、開発と報酬を切り離すことは、イノベーションの観点からは有害にもなりかねない。では、どうすれば? 少なくとも医薬分野の場合、打つべき手は明らかだ。承認の手続きを、誠実な結果しか出てこないようにデザインすればよいのである。言うほど簡単ではないが、究極そこが関門であり防波堤だ。ところが今、まさにその防波堤が決壊しつつあるらしいのだ。これは日本の医療の未来を左右する重大な局面だ。 著者は、欧米の一流サイエンスライターに劣らぬ取材力と人間ドラマへの熱いまなざしで、専門性の高い題材に血を通わせる。さらに、専門的な説明を完備するよりコンパクトさを選び取るのは、欧米の著者とは一味違う、日本の下山流だと私は思う。264ページでこの内容と読みごたえには脱帽だ。 医療と科学に関心のある、すべての人にお薦めする。 [レビュアー]青木薫(翻訳家) 1956年生れ。翻訳家。訳書に『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『宇宙創成』などサイモン・シンの全著作、マンジット・クマール『量子革命』(以上、すべて新潮社)、ブライアン・グリーン『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(講談社)、トマス・S・クーン『新版 科学革命の構造』(みすず書房)など。著書に『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』(講談社)がある。2007年度日本数学会出版賞受賞。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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