ある女性の人生【介護の「今」】
90代半ばの女性は、こんな人生を歩いてきた。
◇小作農の二女として
小さな田んぼが折り重なる山あいの集落で、小作農の二女として、その女性は生まれた。 兄がいて姉がいて。少し年が離れて弟がいた。弟の子守や雑用は、二女の役目だった。兄と姉は、野良仕事を手伝う貴重な戦力だったから。 とはいっても、野良仕事も手伝わされた。弟をおぶって田んぼに出掛け、学校にも通った。
◇屈辱の下働き
高等小学校には、当然ながら行かせてもらえなかった。尋常小学校を卒業すると、すぐに遠い親戚筋にあたる地主の家の下働きとなる。仕事の中身が変わっただけで、体はちっとも楽にならなかった。 炊事、洗濯などの家事全般に加え、むしろ編みや草履作り、柴刈りに豚の餌やりや豚小屋の掃除、さらには養蚕の手伝い。やることは山のようにあった。さらに、使用人としての屈辱が加わった。 その頃、国民学校令により、高等小学校は、国民学校高等科に変わった。使用人としての屈辱の中でも、その高等科に進んだ同い年の地主の子どもの洋服を洗濯するのが何よりもつらかった。
◇農地改革の結果
日本の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の主導の下で小作農のほとんどが自作農となった。農地改革だ。軍国主義から民主主義への転換を図るGHQの占領政策の一環であり、女性の実家も自作農となった。だが、女性がいた山あいの集落では、地主、小作の関係性は実質的に継続した。女性は元地主の家の下働きを続けた。
◇後妻の口
20代半ばで、女性に後妻の口が掛かった。麓の町の商家の息子で、2人の子持ちだった。 GHQの占領政策は、「恋愛の民主化」にも及んだ。昭和21(1946)年5月に公開された映画「はたちの青春」(佐々木康監督)に挿入された日本映画初とされる幾野道子と大坂志郎のキスシーンもGHQの指導だという。 若き女性は、「映画のように自分の思いに忠実な自由恋愛をしたい」との憧れがあった。でも、しょせんはかなわぬ夢。縁談を断る勇気もなく、今の生活が楽しいわけでもなく、言われるがまま結婚した。