「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー
前記の研究から学ぶべき事柄
前記の各書物における著者の意図は、「しいたげられた悲惨な人々」あるいは「無知ながら純朴な農民」というステレオタイプの百姓イメージ・神話・幻想を払拭し、リアルで生き生きとした百姓像を提示するとともに、江戸時代の百姓集団や村がもっていた知恵、先進的側面に光を当て、そこから学ぶべきだというものである(なお、同様の視点を戦国時代の村について示していたものとして、『戦国の村を行く』〔朝日新書〕等の藤木久志教授の著作があった)。 確かに、江戸時代「市民」にこうした広範な知的蓄積があったからこそ、明治日本の「近代化」がまがりなりにも成り立ったのは事実であろう。 また、私たちは、江戸時代の村社会の長所をみることなくその全体を後れた社会として切り捨ててしまった結果、本来であればよく検討した上で継承してもよかった遺産(たとえば、実質的な法教育、身近な組織運営上の問題を司法等の手段で問う習慣)をも置き去りにしてきた一方、その短所(たとえば、司法の事大主義的、権威主義的なあり方や司法のイメージに関する同様のとらえ方)については、無意識のうちに、みえにくいかたちで引き継いでしまっている可能性があるともいえよう。 * さらに【つづき】〈たとえ法学部で憲法を学んでも、多くの日本人が「普遍的な法的価値や理念」を理解できていない「衝撃的な理由」〉では、明治時代から第二次世界大戦後までの法意識の歴史とその特質について、くわしくみていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)