「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー
江戸時代庶民の法意識は高かった
まず、渡辺教授は、江戸時代の「百姓」につき、兼業を含め、漁業、林業、商工業等に従事する人々をも含み、また、村の正規の構成員として認められた者(厳密には家の戸主)の呼称として、一つのステイタスシンボルだったともいう。以下、「百姓」という言葉はこの意味で用いる。 百姓の全体としての知的水準は、識字率や計算を含め、世界的にみても相当に高く、その上層には、土地の知識人や指導者的人物、また、江戸や他藩の武士階級にまで広いネットワークをもつような人物も、まま存在した。 そして、訴訟(後記のとおり、村と村の間の訴訟)についても、村役人たち(村方三役。百姓である)のみならず、子どもたちも、将来に備え、過去の訴訟記録を教材に、訴訟とはどのようなものかを学んでいた。 これはなかなかすごいことだ。江戸時代の村役人の子らや優秀な子どもは、現代の大学生でさえその大半が学んでいないような事柄を学んでいたのである。まさに、高度な「法教育」といえよう。なお、19世紀になると、実際の訴訟記録に代わり、さまざまな訴訟に対応できる雛形としての文例集(訴訟書類マニュアル)が広まった。 上のことからも想像されるとおり、江戸時代の百姓たちは、戦後の日本人について川島が評した(『現代日本人の法意識』第6章)ように「裁判嫌い」ではなかった。むしろ、自分たちの利益が侵されたと考える場合には、1で述べたとおり訴訟は建前上は「権利」ではなく領主等の慈悲、恩情によって行われるものにすぎなかったにもかかわらず、積極的に訴訟を行っており、また、管轄裁判機関での適切な裁きが期待できない場合には、戦略的に、他の裁判機関への各種の越訴をも行っていた。たとえば、代官でなくその上役の、また、自藩大名の裁きではなく幕府の裁きを求めるなどである。 越訴は、建前上は違法だったが、実際には、繰り返したりしない限り処罰されることはなく、しばしば受理されてもいた。また、集団訴訟である国訴(農産物の自由販売を求めて起こされたそれが有名)では、千以上の村々が参加したことさえあった。これは、百姓に広範なネットワークや組織力がなければ、およそ不可能なことである。 もっとも、渡辺教授が取り上げている民事訴訟は、村と村の争いや村の内部における村政・財政問題等をめぐっての争いである。具体的には、村と村の争いでは、山林等がいずれの村に属するか、また、山林や農業用水等の水資源の利用権がいずれの村にあるかといったことが争われ、村の内部では、名主(村方三役の筆頭で村運営の責任者)による村の運営上の不正等について争われている。後者のような訴訟は、現代の行政訴訟的な要素をも含むといえよう。 一方、村落共同体内部における純粋な個人間の訴訟は、あまりなかっただろう。したがって、そこでは、個人としての権利意識は未発達だったと思われる。しかし、「権利意識自体がなかった」とまではいえまい。「社会構造の中で規定される限定された権利意識」であり、ヨーロッパ近代のそれのように普遍的なものではなかったということであろう。