「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー
訴訟の実際と現代日本にも通じる諸要素
取り上げられている個々の訴訟をみると、法学者・元裁判官の私でも熟読しないと正確に経過を追いにくいほどに、込み入ったものが多い。そして、当事者の言い分(現在でいえば準備書面あるいは陳述書)の法的な水準は、訴訟当事者のための宿屋で出廷はできないものの訴訟関係書類の代書、訴訟技術の指導を行った公事宿等の援助を受けただろうとはいえ、また、渡辺教授の前記各書物では内容が整理されているだろうとはいえ、相当に高い。法律の相違を捨象してみるなら、現代の弁護士が作成したとしてもおかしくないレヴェルの論理性を備えているものも多いのだ。 さらに、領主の異なる村どうしの境界紛争では、領主の役人たちも、みずからの側の百姓たちに種々協力し、家臣が百姓に偽装して鮮やかな弁論を行ったために相手方がこれに抗議して出廷拒否をした例まであったという。身分制度の厳しかった江戸時代にも、百姓と武士が、相当程度に近代的・機能的な連携プレーを行うような事態があったのだ。 そして、証拠調べや事実認定も、かなり綿密に行われている。 もっとも、最終的には、内済(和解)で終わっているものが多い。これは、判断官である武士のほうが、温情主義、パターナリズム(家父長制的干渉主義)の観点から、また、判断を行ってもそれに問題があったり紛争が収まらなかったりすれば武士の威信に傷が付くことも手伝って、和解を熱心に勧めたことが大きい。さらに、同じ村や隣村どうしの争いが多いため、百姓の側としても、禍根を残さないために基本的には和解が望ましかったことにもよる。もっとも、時代が下るにつれて、百姓は、「理非による裁判」を求める方向により傾いていった。 なお、江戸時代にも内済批判派はかなりおり、その議論の根拠は、(1)内済では理非に基づく判断が明確に示されないので結果的に強い者勝ちということになりやすい、(2)そうした不合理な内済が裁判に代わるものとして強要されるのはよくない、というものだった。私は、本書でも随時ふれるとおり、日本の裁判官の和解押し付け傾向には大きな問題があると従来から指摘してきたので、江戸時代の市民の間にも同様の批判があったというのはきわめて興味深い。 判決についてみると、審理自体は綿密に行っているにもかかわらず、黒白をはっきりつけない、あいまいで喧嘩両成敗的な色彩を帯びた内容になりがちだったようである。その理由の一つに、判断官である武士としては、武士の面子を保つことが何よりも大切だったということがある。これは、武士が内済を強く勧める動機と同様である。 そして、渡辺教授が詳しく描写する19世紀の裁判の例では、判決言渡期日につき、百姓たちが判決に承服せず、抗議の声が上がるのを恐れて、そうした事態を避けるために入念な進行計画までが立てられている。抗議の声が上がったりすれば、お殿様の名声に傷が付き、役人たちの責任問題にもなるからだ(『武士に「もの言う」百姓たち』197頁以下)。こうした役人たちのパーソナリティーにも、現代日本の司法官僚裁判官に通じる部分がある。 なお、自白が決定的に重視された刑事訴訟のみならず、民事訴訟でも場合によっては拷問がありえたし、一時収牢等の措置もとられえた。また、訴訟費用はしばしば高額にのぼり、村を含めた関係者の大きな負担となった。訴訟に臨む村人、特にその代表者には相当の覚悟が必要だったわけである。