道長の子「藤原頼通」が“51年もの長期政権”築けた背景。期待を注がれる一方で、荷が重かった部分も
「兄」とは頼通、「当腹」(むかいばら)とは倫子、「外腹」(そとばら)とは明子のことだ。倫子との間に生まれた頼通と、嫡妻ではない明子の子とでは、父である道長が注ぐ愛情にも違いがあり、道長としては頼通の舞いを評価してほしかったというわけだ。 なんとも気まずい空気が流れるなかで、周囲の公卿たちは「道長の後継者はやはり頼通だ」と確信を持つことになった。 ■「散楽のよう」と会議の進行をバカにされる そんな頼通が実際に、道長から摂政の座を引き継ぐことになったのは、寛仁元(1017)年3月のことだ。道長は孫の敦成親王が後一条天皇として即位すると、待望の摂政となるも、たったの1年あまりで嫡男の頼通にその座を譲っている。
道長がまもなくして体調不良に陥ることを思うと、自分が健在でサポートできるうちに後進に譲っておくのが、一族の繁栄につながると考えたのだろう。また、なるべく早く頼通にリーダーとしての自覚を促す意味もあったに違いない。 頼通は数え年で26歳と史上最年少で摂政の座に就くことになったが、いきなり疫病、飢餓、洪水に見舞われる。頼通が摂政となって4カ月後の7月に鴨川で大洪水が起きると、実資は「後一条天皇の徳が及ばないせいか、あるいは、摂政になったばかりの頼通の不徳のせいだろうか」と日記につづっている。
当時、天災は為政者に天が下した罰だと考えられていた。頼通としても出ばなを挫かれる思いがしたことだろう。それでも政務で挽回できればよかったが、父・道長の存在が大きく、頼通にはまだ荷が重かった。 8月に官職を任命する「除目の儀」が行われると、頼通は宇治にいる道長に使者を出すなど、父を頼っている。11月の除目でも、頼通は家司の藤原惟憲を道長のもとに遣わして、判断を仰いだという。 それも数回に及んだことから、バタバタぶりについて藤原資平は実資に「去る夕方の官職任命の儀式は、散楽のようでした」と報告する始末だった。頼通は必死に対応していたのかもしれないが、この惟憲が道長と頼通の間を往復する間に、人々に情報を漏洩していたというから、弊害は大きかったといえよう。