道長の子「藤原頼通」が“51年もの長期政権”築けた背景。期待を注がれる一方で、荷が重かった部分も
■人材育成のタブーをやらかしまくる道長 しかし、頼通が摂政でありながら、周囲から呆れられるような有様だったのは、父で前任者である道長の振る舞いにも問題があったように思う。 例えば、頼通が摂政となって数カ月の8月には、頼通が「明日は休日なので審議を行わない」と周知したにもかかわらず、道長が当日になって「今日に審議を行うことは決定した。休日の開催を避けるべきではない」と言い出して、周囲を混乱させている。
方針がコロコロ変われば、下で働くものは大変だ。藤原資業は実資に「大小の事は、摂政は自由にし難いのです」とこぼしている。これでは、頼通の言うことなど誰も聞かなくなってしまう。道長が実権を振るうのは、息子から頼られたときに限るべきではなかったか。どうしても口を出したいときは、せめて1対1で指導する配慮は必要だったように思う。 また、治安3(1023)年には、頼通が摂政となってすでに6年が経とうとしていたにもかかわらず、道長は頼通をしかったという。『小右記』には次のように書かれている。
「昨日、多くの人の前で、禅閤が関白をおしかりになった」 (昨日、衆中に於いて、禅閤、関白を勘当せらる。) 「禅閤」とは道長で、「関白」は言うまでもなく頼通のことだ。 もはや頼通は表立って苦言を呈されることはない立場である。それだけに、道長としても「父である自分が言わなければ」という思いがあったのだろう。 しかし、「衆中に於いて」とあるように、多くの人の前でしっ責することは避けるべきだった。場は引き締まるかもしれないが、下に従う者は頼通ではなく、道長の意向を重視するようになるからだ。
頼通が頼りなかったのは、道長がそれだけデキる男だったからではないだろうか。「名選手、名監督にあらず」とはよく言ったものだ。 それにしても、道長はなぜ頼通をしかり飛ばしたのか。 その理由について『小右記』では「懈怠の人々を勘責せられざる事」とある。怠惰な太政官の官人をしからなかったことに、道長は怒りを露わにしたのだという。他人に厳しいことをいうのが、苦手だったのかもしれない。 ■優柔不断ながら50年以上も関白を務めた