藤原道長「この世をば…」の裏に隠された“苦悩”とは? ドロドロ権力闘争の日々
道長とは、いうまでもなく藤原摂関家の最盛期に君臨した権力者である。「一家三后」をも実現させたことで、この上ない権力を手に入れたはずであった。しかし、それにもかかわらず、彼の心は晴れることはなかった。常に道長が抱えていた「苦悩」とは、いったいどのようなものだったのだろうか? ■道長を悩ませ続けたものとは? 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも なしと思へば」 いうまでもなく、藤原道長の歌である。「この世はまるで自分のためにあるようなもの。満月のように、何一つ欠けるところはない」というのが、一般的な見方というべきだろうか。権勢を極め尽くした道長が、自らの人生を振り返って、こう歌い上げたという。 舞台は、四女・威子(いし)が立后(りっこう)した祝宴の場である。すでに長女、次女を入内させており、威子を後一条天皇の中宮にすれば「一家三后」が実現。つい喜び勇んで羽目を外し、調子付いて声高らかに歌い上げてしまった……というところだろうか。 ただし、それは一般に流布されているような「傲慢さゆえ」の発言ではなかった。「一点の曇りもなくそう思った」わけでもない。 これまでの苦しい歩みと健康状態を顧みれば、とてもとても、諸手を挙げて喜べるような状況になかったはず。苦しい思いが続くさなかのつかの間の喜びに、思わず気を許してしまったにすぎない。権力奪取を目指した男の「哀れ」をも感じさせる一言だったのである。 いったい、どういうことなのか? まずは、その生い立ちから振り返ってみることにしたい。 ■兄たちが次々と脱落 道長の家族構成を見てみると、彼はそもそも、栄達を望めるような立場にはなかったことがわかる。父・兼家こそ、摂政として権勢を誇っていた御仁であったが、道長はその五男(四男とも)。4人の兄がいたことから鑑みれば、どう見ても、彼が父の跡を継げるとはとても思えなかったのだ。 ところが不思議なことに、長男の道隆が摂政・関白・内大臣の座にまで上り詰めたものの、43歳にして急死(糖尿病か)。次男・道綱は妾妻腹であったため、他の嫡妻腹の兄弟よりも出世が遅れた。 そのため、跡を継いだのは三男・道兼であったが、関白となった数日後に病没する。四男・道義(みちよし)は、愚か者としての評判が立つほどの人物だったとかで、そもそも対立候補と目されることはなかった。 結局、兄たちがこぞって表舞台から消えていったことで、道長は棚から牡丹餅が落ちてくるかのように、権力を得るのである。 道長がいつから権力奪取を目指すようになったか定かではないが、その意欲があったとしても、兄弟が健在なうちは、到底、それを達成することなど不可能だったはずであった。 それが、兄の死などによって可能性が高まるにつれ、かえって彼の心は穏やかでいられなくなったに違いない。権力を目指し始めた時点から、苦悩の日々が始まったというべきか。 兄・道兼が亡くなったのは995年のこと。道長が30歳になろうとする頃である。悶々と苦悩する20代を経て、ようやく30歳を迎えた頃にチャンスが巡ってきたのだ。 しかし、これで一安心と思ったのもつかの間であった。