藤原道長「この世をば…」の裏に隠された“苦悩”とは? ドロドロ権力闘争の日々
■ライバルの出現に戦々恐々とする日々 今度は、甥の伊周(これちか/兄・道隆の嫡男)が道長の前に立ちはだかってきたのだ。一条天皇に引き立てられて、関白の座を射止めそうになったからである。伊周にその座を奪われてしまっては、摂関および藤原長者の座までもが、道隆の系譜に連なる中関白家のものになってしまうから、道長としては心穏やかではいられなかった。 幸いにも、この時は道長の同母姉・詮子(せんし/一条天皇の母)が道長に味方。その力添えを得て、かろうじて道長の登用が決まった。これでようやく道長の手に、権力の座が転がり込んできたのである。 ただし、悪縁の伊周とはその後も抗争が続き、口論もたえなかったようだ。996年、伊周が女性がらみの問題で、花山院に矢を射かけたとして失脚。道長が左大臣に昇格したことで、ようやく名実ともに、権力の頂点に君臨することができたのだ。 ここから、道長は次なるステップに踏み出している。権勢をより強固なものにするために娘たちを次々と入内させ、外戚としての地位を確立することに意を注いでいったのだ。 長女・彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせたのを皮切りとして、次女・妍子(けんし)を三条天皇に、三女・威子まで後一条天皇の中宮としたことで、皇后・皇太后・太皇太后の三后を全て独占。「一家三后」を実現させたことで、この上ない権勢を実現することができたのだ。 もちろん、道長の飽くなき努力の賜物であったとはいえ、幸運が重ならなければ達成されるものではなかった。実力で掴み取ったというより、むしろ常に薄氷を踏むような思いで、手に汗握るような日々が続いたに違いない。気が休まる日など、一日たりともなかったはず。 しかも、いつ何時、足元をすくわれて、権力の座から引きずり降ろされるかもしれない。同族内にも敵対する人物がまだまだ健在であったことも、彼の心を揺さぶり続けた。 このように考えれば、冒頭の歌は、自らの力を誇示しておごり高ぶったというものではなかったはず。むしろ、心安らかでなかった過去を思い起こし、苦難の末にようやく手に入れた安逸につい気が緩み、思わずはしゃいでしまったと考える方が自然だろう。 それは傲慢さなどというようなものではなく、安堵の一言だったというべきではないだろうか。 ■欲に取り憑かれた「哀れ」な男か さて、これまでは彼の若かりし頃の苦悩について振り返ってきたが、権力を握った壮年時代になっても、実は彼の苦悩は続いている。 権力の中枢に上り詰めた30代にして彼を悩ませたもの、それが病魔であった。病に侵され、日々体調の悪化に苦しめられていたのだ。 さらにその原因が、自らが陥れた人々の怨霊のせいだと本気で信じていたから、体力面だけでなく、精神面においても、常に追い詰められた状況にあったことは間違いない。威子立后の祝宴の頃にはすでに糖尿病に犯され、以後、死に至るまで苦しめられ続けたことも見逃してはならないのだ。 何はともあれ、若かりし頃の苦しい歩みと病にもがき続けた道長。その思いが続く中のほんのつかの間につい口ずさんでしまった……というのが「この世をば…」の歌だったのではないか。 権力者とはいえ、いや、権力者だからこそ、苦悩は尽きることがなかった。「権力」という欲に取り憑かれた男、そこに「哀れ」を感じ取ってしまうのは筆者だけではないだろう。 画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション(編集部にてトリミング)
藤井勝彦