横浜駅弁「シウマイ弁当」が70年愛される、その理由とは?
【ライター望月の駅弁膝栗毛】 「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。 【写真全10枚】シウマイ弁当、歴代の掛け紙(横浜工場・見学コース)
1日2万7000食、人呼んで“日本一売れる”駅弁「シウマイ弁当」が、この4月で誕生70周年を迎えます。ファンも多く、おかずの変更1つでも、メディアの話題となります。この「シウマイ弁当」は、70年前、どのようにして生まれたのか。そして、どうして70年にわたって、売れ続けているのか。崎陽軒の野並社長にお話を伺っています。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第50弾・崎陽軒編(第4回/全6回)
横浜名物「シウマイ」の知名度を高めた、「シウマイ娘」が登場した昭和25(1950)年は、東京~沼津間に湘南電車が走り始めた年でもあります。茶色い車両が多かった時期に、オレンジと緑色の鮮やかな車両が登場したことは、シウマイ娘と同じように明るい時代の到来を感じさせたのかもしれません。東海道本線の普通列車は、東北本線や高崎線と直通運転を行うようになったいまも湘南色の帯をまとって横浜の街を駆け抜けていきます。
このシウマイ娘に続く形で昭和29(1954)年に登場した「シウマイ弁当」。崎陽軒4代目の野並晃社長に「シウマイ弁当」の食べる順番を伺うと、最初はご飯からいただいて、最後のあんずだけは決めているといいます。ただ、シウマイは最初何もつけずに、その後はしょう油だけつけたり、辛子だけつけたり、しょう油と辛子を両方つけるなど、“味変”を楽しむそう。人ぞれぞれのこだわりも多い「シウマイ弁当」の誕生秘話を伺いました。
●横浜市民の愛が育てた「シウマイ」「シウマイ弁当」
―昭和29(1954)年というタイミングで、「シウマイ弁当」を開発した理由は? 野並:戦後、シウマイ娘による知名度アップもあり、ようやく横浜名物として定着してきた「シウマイ」を使って幕の内弁当を作ってみようとなったようです。駅弁屋としては、自然な流れだったのではないかと思います。加えて、社会的背景を考えますと、戦争から復興が進んで、食材が安定して調達できる時代になったというところもあるかと思います。 ―「シウマイ弁当」が70年続いている理由は、どこにあると分析していますか? 野並:横浜市民の皆様が、ずっと愛して下さっているからだと思います。社内でよく言っているのは、「シウマイ」や「シウマイ弁当」というものは、今や“横浜市民のもの”で、崎陽軒という会社が製造・販売する権利をいただいているのだと。ですから、横浜市民の皆様の同意なくして勝手に中身を変えることの出来ないもの……そのくらいの精神性で、弊社は毎日、「シウマイ」や「シウマイ弁当」の製造に当たっています。