レバノン映画『判決、ふたつの希望』が世界中で大ヒットの“ふたつの理由”
レバノンの首都ベイルートで、キリスト教徒のトニー(アデル・カラム)とパレスチナ難民のヤーセル(カメル・エル=バシャ)とのあいだに起きた些細な口論が、ある侮辱的な言葉をきっかけに裁判へと発展してしまう。「ただ、謝罪だけが欲しかった」だけのはずが、法廷では真実とともに紛争の記憶や民族、政治、宗教などの複雑な問題が持ち上がり、国家をも揺るがす事態を招いてしまう。映画『判決、ふたつの希望』は、どこの国の誰が観ても「心をつかまれる感動作」だと、世界中から絶賛の声が寄せられている。 レバノン内戦状況下で少年期を過ごしたジアド・ドゥエイリ監督は19歳でレバノンを離れ、米国に留学。サンディエゴ州立大学で映画学位を取得した。クエンティン・タランティーノ監督のカメラアシスタントとして、『パルプ・フィクション』(1994)などの作品にも参加経験がある。初監督作品『西ベイルート』(98)では国際的に高い評価を受けた。
最新作『判決、ふたつの希望』ではレバノン史上初アカデミー賞外国語映画賞にノミネートのほか第74回ベネチア国際映画祭では主演のひとりカメル・エル=バシャがパレスチナ人初となる最優秀男優賞受賞した。 ドゥエイリ監督は同作において、とかく注目されがちな政治的、社会的背景よりも、「キャラクター」を描きたかったと言う。日本にとってレバノンは遠く、異なる文化を持つ国だが、同作の根底に流れるテーマは「どこにでも、どこの国でも起こりうる、普遍的なもの」だと強調する。 「レバノンって遠くて知らない国だし、と考え過ぎずに観てほしい映画です。人種や宗教を選ばない、“人間”の物語としてつくったので、予備知識もなしで観ていただいても、完全に理解していただけます」とドゥエイリ監督は自信を持って語る。
レバノンを舞台にした映画だが、描いたのはどの世界にも共通する普遍的なもの
―――レバノンについては、ニュースなどでよく見聞きしますが、日本人にとってまだ遠い国との印象があります。『判決、ふたつの希望』に描かれた世界は、現在のレバノンの縮図として捉えてもいいのでしょうか? ドゥエイリ監督:これがレバノンのいまの姿であると一口には言えません。なぜならば、米国でもスペインでもアイルランドでも、世界の半分の姿をこの映画の中に見ることができると僕は思っているからです。いま遠い国とおっしゃいましたけれども、レバノン人からすれば日本もとても遠い国です。そのギャップを埋めるため、僕はいろいろな映画をつくることによって、橋をかけていけるのではないかと思っています。だから僕の作品は具体に埋もれていくのではなく、より普遍的な物語として伝わるようにつくることを心がけています。 良質な映画というのは文化を超えて共通しているもの。つまり普遍性を感じさせる作品だと思います。例えば黒澤明監督の『乱』は、すごく日本的な映画ではあるけれども、同時に外国の人が観てもすべての部分は理解できるのです。家族や絆などといったものが描かれているのですから。シェイクスピアも同様でしょう。こうした考えは僕自身がいろいろな文化に触れて暮らした経験があるからかもしれません。僕がやろうとしていることは、現在のレバノンの人々の生活や問題を伝えるというものではありません。レバノンが舞台なのですが、どこの世界にも共通する普遍的なものを伝えていきたいと思っています。 ―――今回の映画は監督が実際に体験した小さないざこざから着想を得たそうですが、そこに社会性を持たせたり、メッセージ性をどう加味していったのでしょうか? ドゥエイリ監督:僕は映画の脚本を書いているとき、テーマについては考えません。社会問題でも哲学的なものでもコンセプトについては一切考えないで、とにかくキャラクターを追いかけて書いていくんです。キャラクターがどんな人間であるのか、キャラクターが物語のなかでどう行動するのかを考えて、脚本を書き上げていきます。主人公が進んでいく道をはばもうとする壁とか、主人公の弱点は何かなどを考えて構築していくんです。社会的なテーマのようなものは単なる背景にすぎません。プラットフォームにすぎない。映画の主軸にはなりえないのです。映画の物語においては主人公はあくまでも、「人」なのです。 映画の脚本は米国式で、脇役との関係性を考えながら、一幕、二幕、三幕と仮説を立て、その伏線をどう回収していくのかという本当に純粋な脚本の書き方をしています。しかもキャラクターを追いかけていく書き方をしているので、大きな問題提起やメッセージ性というものは一切考えていないんですよね。メッセージ映画をつくっているつもりではないのですから。