無敵のカルソニックスカイラインはもはや伝説! 星野とともに歩んだ43年「日本ラヂヱーター→カルソニック→マレリ」の名物スポンサーがついに消える
2024年シーズンをもってスーパーGTから名物スポンサーが去る
出会いがあれば別れがある。すべてのものは移り行く。諸行無常とはよくいったもので、レースの世界も2024年のシーズン終了とともに、大きく体制が変わることがいくつかある。 【画像】カルソニックブルーをまとったホシノインパルの歴代レーシングマシンの画像を見る 国内レースでいえば、43年間続いたホシノレーシングのメインスポンサー、マレリ(旧カルソニックカンセイ)が、10月23日に契約終了を発表した。 長年にわたり「カルソニックブルー」として親しまれた、ホシノレーシングとのパートナーシップは、1980年代の日本ラヂヱーター株式会社の時代までさかのぼる。 自動車用ラジエーターではトップクラスのシェアを誇っていた同社は、1982年、大人気カテゴリーとなるシルエットフォーミュラの「ニチラインパル日産シルビアターボ(S110)」のスポンサーとして、日産、そして星野一義のスポンサーとして、本格的にレースにかかわりはじめる。 ムーンクラフト製のど派手なエアロパーツと、左のサイドマフラーから豪快にアフターファイアを出しながら走る姿は、多くのファンを魅了し、大人気カテゴリーとして注目を集めた(シャシーはノバエンジニアリングが開発)。 なかでも長谷見昌弘が駆る赤のトミカ・スカイラインと、星野一義の白いボディに黄色い稲妻を模したニチラカラーのシルビアの存在感は一際だった。 1983年もS12のニチラインパル日産シルビアターボを走らせ、同時にグループCによる全日本耐久選手権にも「ニッサン・シルビアターボCニチラ」で参戦。 「ニッサン・シルビアターボCニチラ」は1983~1986年まで参戦し、1985年のWEC JAPANでは、星野一義が日本人初となる世界選手権制覇の偉業を達成。 1987年には新たに開発したグループCカー専用エンジンを搭載した「NISSAN R87E NICHIRA」が登場。ル・マン24時間レースにも挑戦した。 そして、日本ラヂヱーターは1988年、カルソニック株式会社に社名変更。 ここからコーポレートカラーがブルーになり、1988年の「カルソニック・ニッサン R88C」からカルソニックブルーが採用される。 1989年もCカーのカルソニック・ニッサンR88C/R89Cで戦い、グループAレースがはじまると「カルソニック スカイライン」が登場(HR31)。 1990年には、16年ぶりに復活したスカイラインGT-R(R32)がデビュー。カルソニック スカイラインはそのデビュー戦を制し、この年のチャンピオンを獲得。 Cカーにも参戦し続けていて、1991年はカルソニックニッサンR91CPの星野一義/鈴木利男が全戦ポールでチャンピオン(翌1992年もカルソニックニッサンR91CP/R92CPがチャンピオン)。 グループA最後の年=1993年もカルソニックスカイラインがチャンピオンになり、星野一義=スカイラインGT-R=カルソニックブルーで、ひとつの時代を築き上げる。 また、1993年は全日本GT選手権でも影山正彦の「カルソニックGT-R」がチャンピオンに(1994年・1995年も連覇)。