蔦重が演出した「華やかな吉原」の背後に潜む“遊女の悲惨” エンタメ化されても遊廓の本質は「風俗街」
まだ江戸市中にあった元吉原の頃が最初の40~50年であり、第1期とすれば、江戸の郊外にあたる千束に移った新吉原が第2期となります。それからおよそ100年の時が経過して、宝暦年間(1751~1764年)の頃に、吉原のシステムが一変します。ここからの100年間を第3期とします。 吉原の全盛のひとつは、やはり第2期の宝暦以前の新吉原であり、それは端的に「太夫(たゆう)」がいた時代でした。太夫とは吉原の最上級の遊女に対する呼称です。太夫時代の吉原遊廓で遊ぶには、客は莫大な資金を要しました。本当に選ばれた者しか、吉原遊廓では遊べない時代です。その分、格式があり、大名や豪商ら夜な夜な豪遊した、伝説的な時代でした。
当時の江戸は、元禄のバブル期へと突入し、大変潤った頃です。経済的には大きく成長した江戸ですが、しかし、文化面ではまだまだ、上方のほうが上でした。蔦重が参入する出版にしても、当時はまだ上方中心です。有名な近松門左衛門や井原西鶴も、みな関西の出版界で活躍していました。彼らが書く遊里とは、京都の島原遊廓、大坂の新町遊廓を題材としていることがしばしばでした。 しかし、元禄のバブル期が落ち着いてくると、やがて江戸でも独自の文化が発達してきます。大名ら武士階級が経済的な痛手を被り衰退していく一方で、急速に発展してきたのが、江戸の商人たちであり、江戸庶民でした。
庶民文化が興隆してくる最中で、吉原遊廓のシステムがガラッと変わります。宝暦以前は、妓楼に所属する遊女たちを揚屋に呼び出して遊ぶというのが通例でした。現代風に言えば、デリバリー・ヘルスです。 揚屋方式は、客の負担が非常に大きい遊び方です。呼び出し料も必要ですし、揚屋の部屋代、飲み食い代も必要です。妓楼から揚屋まで、太夫が客の元に向かう際には、新造(しんぞう)や禿(かむろ)、若い者を従えていくわけですから、その分のお金もすべて工面しなければなりません。