蔦重が演出した「華やかな吉原」の背後に潜む“遊女の悲惨” エンタメ化されても遊廓の本質は「風俗街」
ただ、逆に言えば、妓楼に直接上がらなくても、揚屋に遊女を呼べば大名も気兼ねなく遊べましたし、宝暦以前はそれだけの大きな額を負担できるほどの経済力がありました。 しかし、元禄のバブルが弾けてしまうと、たちまちに財政難となり、大名も豪遊ができなくなりました。吉原も劇的な転換を迫られたのです。 こうして、宝暦末までに、徐々に揚屋のシステムに変更が加えられていきます。「太夫」や「揚屋」がなくなると、客が直接に妓楼で遊ぶ仕組みへと変わりました。いわば、今の店舗型の風俗店になったのです。そして、妓楼と客の仲介役・紹介役を引手茶屋が務めます。まさに風俗の案内所です。
時代小説や漫画などの題材となり、現代人が思い描く吉原とは、この宝暦以降の、「太夫」がいなくなった吉原なのです。 ■蔦重が構築した吉原との「ウィンウィンの関係」 この吉原の転換期と同じ時期、出版界においても大きな転換期が訪れました。江戸にも独自の本屋・版元が生まれ、上方中心だった出版文化が江戸へと移ってきたのです。その渦中で、本屋を開業したのが、蔦屋重三郎でした。 蔦重は吉原大門前の五十間道(ごじっけんみち)に店を出しますが、そこで吉原遊廓のタウンガイドである「吉原細見」を売り出します。吉原細見は各妓楼にどんな遊女が所属しているのか、茶屋や吉原の芸者たちの情報や金額などを含めた、吉原の総合ガイドブックです。
正月と7月の年2回発行されますが、妓楼内の遊女の移り変わりも激しいため、改訂版なども随時、刊行されました。そのため、新興の本屋としては、確実な定期収入になる、堅い仕事でした。 吉原細見を作っていくには当然、吉原の人たちの協力が不可欠です。吉原出身の蔦重に、吉原の人たちも全面的に協力してくれたのでしょう。またそれは、吉原にとっても益のあることでした。江戸市中の外にあり、庶民の生活とは隔絶した世界であった吉原遊廓を、出版物を通じて巧みに宣伝・プロデュースしたのです。