無名芸人なすび「私は馬鹿になることを決めました」…裸一つ、懸賞だけで生き延びた1年2か月
いつでもやめることはできたが、途中で投げ出すのは嫌だった。生きていくのに必死で、いつしか撮影していることも頭から消えていた。
一番つらかったのが、孤独に耐えることだった。話し相手は誰もいない。「死んだ方がましだ」と何度も思った。いきなり叫び、気付けばちゃぶ台をひっくり返していることもあった。
「もうちょっと頑張れば抜け出せる」。精神を保つため、独り言が増えた。日記も助けになった。〈書くことで、自分が救われたり、癒やされたりしてんのかな〉と記した。
懸賞生活が始まって11か月がたった98年12月、歓喜の瞬間が訪れた。当選総額が100万円を超えた。お祝いで渡航した韓国で、地獄が待っていた。告げられたのは企画の続行だった。
「絶対に無理」。番組プロデューサーの土屋敏男さん(68)と3時間、押し問答が続いた。最後は自分が折れるしかなかった。「土屋さんが悪魔に見えた」。日本への旅費約8万円が新たなゴールに設定された。
孤独な戦いは突如、終わりを告げる。99年3月、何の説明もないまま、アイマスクと大音量が流れるヘッドホンを着けられた。長時間移動し、目隠しを取ると小さな部屋にいた。続行を覚悟し、服を脱いで裸になった直後だった。
四方の壁が外側に倒れ始める。急いで座布団で前を隠した。「おめでとう」。1000人の観客から、歓声と拍手がやまない。目標達成を祝うサプライズ演出。頭の中は真っ白で、座り込んだまま動けなかった。スタッフと一緒に船に乗り、日本に帰国していたことは後で知った。
今では、あり得ない企画だった。土屋さんも「あの時代だからこそできたし、今なら視聴者に受け入れられないだろう」と語る。ゴールシーンは、11年続いた電波少年の中で、一番思い出に残っている。「演出家としては至福の時だった。驚異的な忍耐力を持つなすびでなければ、成功はなかった」と話す。
古里支援のため「僕が奇跡を」
大学に復学し、両親にわびた。テレビに引っ張りだこになったが、求められるのは、服を脱ぐことや「当選の舞」といった懸賞生活の再現。やりたいのは裸で笑いをとることではない。原点に戻り、喜劇俳優を目指そうと思った。