美空ひばり伝説の「悪役」にされた笠置シヅ子「ブギ禁止令」の真相とは?
● 大スターとなったひばりに 申し入れられた「ブギ禁止令」 だが1950年春、今度はたしかに、笠置と服部はひばり側に自分たちのブギを歌うことを禁じる申し入れをすることになる。 10代からすでに天性とも思える歌唱力・演技力を発揮し、20歳で大スターとなった美空ひばりが、「大好きな笠置先生からにらまれることになった」と自伝で告白した意味は、もはやスター同士の個人的・感情的問題ではなくなった。 スターの周辺の、興行に関わる何人もの人々や組織のビジネス的思惑、野心、成功への布石や打算、ひいては芸能人が庶民とは桁違いの莫大な報酬を得る芸能界という業界のあり方にまで目を向ける必要がある。 そんな話はかつて(今も?)スターにまつわるさまざまなトラブルとして少なくないのだが、当時のひばり自身は知らなかったと思われる複雑な理由があった。 1949年10月に女優の田中絹代が渡米して以来、翌1950年にかけて多くの芸能人、国会議員、文化人たちがこぞってアメリカに旅立ち、メディアが華々しくそれを報じた。 そんな彼らを一部のマスコミは、アメリカ帰りという箔付けのためアメリカでションベンだけして帰る、という意味の“アメション”と皮肉ったが、日米交流ブームは時代の流れだった(当時の日本人が渡米するのは今みたいに簡単なことではなかったが)。この流れに笠置とひばりが乗ったのも別に不思議はない。
ただ、ひばりは前年にメジャーデビューしたばかりで、少々強引という印象もなくはないが、ブギを歌う笠置が本場アメリカで歌い4カ月かけて歌手として見聞を広めるのは納得できる。 笠置側の名目は“日系人慰問公演”としているが、興行が目的ではないと明言している。ひばり側は“日系2世部隊第100大隊記念塔建設基金募集興行”という“大義名分”を掲げ、帰国後公開される映画『東京キッド』の撮影も兼ねていた。 ● “芸能界の黒い太陽”が仕切った 笠置のアメリカ公演日程の謎 2人のアメリカ公演にはマネジメントを仕切る興行師の存在があり、笠置のホノルル、本土西海岸公演は松尾興行がマネジメントを仕切った。 この松尾興行社長の松尾國三(1899~1984、日本ドリーム観光代表取締役)は明治時代に旅役者から身を起こし、興行会社やレジャー産業を経営するなど、芸能プロモーターや実業家として幅広く活躍した。政治家から芸能人、右翼・暴力団まで人脈も広く“昭和の興行師”“芸能界の黒い太陽”との異名を持つ人物である。 一方、ひばりのハワイ、アメリカ西海岸での興行は日米キネマ(戦後、ハワイ・ホノルルで映画館を経営する傍ら、日本映画輸入エージェントを設立した興行会社)がマネジメントを担当したとなっている。