19センバツ星稜 第4部・「伝統」をまとう/4 運命が引き寄せた2人 /石川
<第91回選抜高校野球> ◇「黄色」を守る監督と部長 林和成監督(43)と山下智将部長(37)。現在の星稜を率いる2人は、運命に引き寄せられたかのように母校に根を下ろした。 ◇ 「就職、どうするんだ?」 日本大学4年だった1997年9月、林青年のもとに本田実部長(当時)から1本の電話があった。金沢に戻って家業の住宅建築会社を継ぐか、東京でそのための修業をするか。進路は二択だった。そして、次の言葉に耳を疑う。 「星稜に戻ってくる気はないか?」 いきなりの誘い。「寝耳に水とはああいったことを言うのかと。宅建(当時の宅地建物取引主任者)の勉強もしていましたし」。大学生で区切りを付けようと思っていた野球との接点が再びできる--。悩んだ末、母校に戻ることを決めた。 事務職員としてコーチを務めながら、夜は教員免許取得のために金沢星稜大(旧金沢経済大)に通う日々。時間に追われると同時に、後輩への指導には四苦八苦した。 高校時代は1学年先輩の松井秀喜さん(44)と主に三遊間を組み、甲子園にも3回(91年夏、92年春夏)出場。「第2期黄金時代」に在籍した自身にとって、甲子園が遠くなりかけていた選手たちの姿は歯がゆかったという。「『昔はなあ』なんて話をしたこともあった。押して引いてではなく、押して押してという指導でしたね」。コーチ、部長、監督と立場が変わるにつれ、選手との距離感をつかめるようになってきた。振り返れば気恥ずかしくなるような指導者としての初期も「自分の礎になっている」。今はそう言い切れる。 ◇ 一方、山下智茂監督(現名誉監督)の長男として生まれた智将部長。星稜の選手たちには小さな頃から遊んでもらっていた。「『ボール投げて』とか、打ったら『(球を)取ってきて』とか。当時のOBには『生意気だった』と言われます」と頭をかく。野球を始めた小学4年当時は、ちょうど星稜の第2期黄金時代。黄色のユニホームは強さの象徴であり、「星稜以外は全部敵」と考えるのは自然の流れでもあった。 だから、星稜中から父のいる高校野球部に進むことにためらいはなかった。2年生だった98年夏の甲子園ではベンチ入り。周囲の信頼も厚く、主将も務めた。卒業後は専修大学に進み、準硬式野球部に在籍。星稜以外のユニホームに袖を通して違和感を覚えてしまったのは、今となっては笑い話だ。 ◇ 林監督にとっては、黄色のユニホームは星稜中から通算して四半世紀ほどの付き合い。「長いですねえ」とつぶやきつつ、「山下先生のもと、歴代の先輩方が現在の地位を築き上げてきた。このユニホームを汚してはならない」。重みは年々大きくなる。 愛着という言葉では片付かない思いを智将部長は星稜に抱く。「たくさん学校がある中で、生徒たちはうちを選んでくれた。大事にしたいし、成長してもらいたい」。黄色の躍動を強く願っている。【岩壁峻】