「儲からない、撤退したい」な食堂車に“復活”の兆し なぜ廃れ、なぜいま再注目されるのか
鉄道におけるビュフェとは
時代は外食産業の乏しい戦前、庶民向けの和食堂車は全国に普及していきます。特急・急行だけでなく、準急や長距離・観光目的の普通列車にも連結されました。日光線や参宮線といった、本線ではない地方路線にも和食堂車が登場したのです。 1930(昭和5)年になると、官鉄もウェイトレスを採用し、1937(昭和12)年には特急「燕」「鴎」の食堂車に国内初の冷房装置を備えます。この時点では、特急の一等展望車や一等寝台車でも非冷房だったので、画期的サービスでした。 しかし、太平洋戦争の激化により、1944(昭和19)年に食堂車連結は中止。一等・二等車も廃止され(二等のみごく一部で復活)、鉄道は輸送力に全振りしていきました。 太平洋戦争終結後、日本を占領した進駐軍向けに、食堂車は復活。一般国民が窮乏する中、白帯を巻いた進駐軍専用列車の食堂車は、別世界の存在でした。日本人が利用できる食堂車は1949(昭和24)年の特急「へいわ」で復活します。 そして1956(昭和31)年に登場したオシ17形より、幅広車体が導入され、食堂内は2+2列配置での定員40名が可能となります。これは京都鉄道博物館で保存されているナシ20形など、特急用食堂車の基本となりました。 1958(昭和33)年に登場した、国鉄最初の電車特急151系には、初めての半車食堂車「ビュフェ」が連結されました。カウンターを備えた厨房を持ち、乗客が立食するスタイルです。ビュフェは1961(昭和36)年からの電車急行でも採用され、列車によっては握り寿司やそばなども提供されました。
儲からない食堂車
ビュフェは東海道新幹線にも踏襲されました。とりわけ車体幅が広がったことで、新幹線ビュフェでは座席にいながら食事ができ、電子レンジの実用化も相まって迅速に食事が提供されたことは画期的でした。 食堂車はこの時期から増えた、電車・気動車の特急にも連結されます。途中で分割併合する特急「白鳥」には2両の食堂車があり、乗客が食べ比べを楽しんだとか。私鉄の伊豆急行も、1961年から「スコールカー」と呼ばれる食堂車を導入するなど、次々に新車が登場します。 表向きには、この時期が食堂車の全盛期だったでしょう。しかし食堂車とは、外国の事例も含めて儲かるものではありません。開業から1年しか経たない東海道新幹線ビュフェでも、担当した帝国ホテルが「利用者の回転率が悪く、儲からない。宣伝どころではないので、撤退したい」と申し入れ、値上げするほどでした。 特に急行「きたぐに」が食堂車を原因とする火災事故を起こした1972(昭和47)年以降、急行から食堂車が廃止されていきます。在来線特急でも1986(昭和61)年までに昼行特急の食堂車が全廃となり、寝台特急の一部に残るのみに。1974(昭和49)年に全車食堂車36形が連結され、一時は大半に食堂車とビュフェが設けられた新幹線も、1990(平成2)年に登場した300系以降には設置されませんでした。