五輪はひとりでは戦えない。メダリストに不可欠な能力とは? 【松田丈志の手ぶらでは帰さない!~日本スポーツ<健康経営>論~ 第4回】
私は、五輪という場所がどういうものなのかは、実体験を通して学んできたと思っています。 【写真】52年ぶりの快挙を成し遂げたリレーメンバー 最初のアテネ五輪(2004年)は右も左もわからず、がむしゃらに挑んだ感じでした。自分なりに考え頑張ったつもりですが、メダルには届かなかったし、自分の力を出し切ることもできませんでした(400m自由形8位、200mバタフライ準決勝敗退、1500m自由形予選敗退)。自分は五輪では結果を出せない人間なのかもしれない、という嫌なイメージが頭をよぎりました。 メダルを獲った選手とそうでない選手の明暗は残酷なまでに分かれることも経験しました。レースが始まるまではたくさんの取材を受けましたが、メダルが獲れずに終わると取材に来る人はいなくなりました。アテネから帰国する飛行機のシートがメダリストはビジネスクラスで、そうじゃない人はエコノミークラス。帰国後、さまざまなイベントやメディアに出演するのもほとんどがメダリストでした。 悔しかったですが、その悔しさはモチベーションとして大きな力になりました。結果がすべての世界ですから、水泳選手として生計を立てていくには五輪で結果を出すしかない、と痛感しました。 帰国後に考えたことは、「どうやったら五輪で結果を出せるのか?」その一点だけでした。メダルを獲ったチームメイトたちと自分とで何が違ったのかを考え続けて、思い当たることはすべてノートにメモしました。そんなとき、なんとなく見ていたテレビの映像に釘付けになりました。 アテネ五輪といえば、北島康介さんが男子平泳ぎ(100m、200m)で2冠を達成し、国民的スターになった大会です。100m平泳ぎ決勝の映像では、北島さんが金メダルを勝ち獲ると「やっぱり北島強かった」の名実況が入り、北島さんが力強いガッツポーズを決めます。次の瞬間、レースを応援していたスタンドの日本代表チームが映し出されました。その光景に私は衝撃を受け、自分とは違う何か大きな力がそこにあることに気づきました。 北島さんのレースを応援していた日本代表のチームメイト、コーチ陣、トレーナーや科学スタッフ、マネージャー、そのみんなが抱き合って、涙を流して喜んでいました。これだけの仲間たちが応援し、日本代表チーム一丸となって北島さんと一緒に戦っていたのか。 当時の私は、競泳は個人競技ですから、「自分の努力がすべて」と思っていました。確かにレースはひとりで泳ぎますが、スタート台に立つまでにはさまざまな人たちのサポートがあります。自分ひとりで頑張ろうとした私と、日本代表チームとして結束した北島さんのパフォーマンスには大きな差がありました。 五輪という最高峰の舞台で結果を出すには自分自身が努力するのは当然で、周りから応援され、周りの力を自分の力に変えられることが必要なのだと、五輪はひとりでは戦えないのだと学んだ瞬間でした。 以降の3大会(北京、ロンドン、リオデジャネイロ)ではこの教訓を胸に戦いました。意識したのは、「自分を応援してくれる人を増やす」ことです。自身のコーチや家族だけでなく、日本代表のチームメイトやそのコーチ陣、スタッフ、スポンサー、ファンの皆さんに地元の人たち。メディアも、敵にするより味方になってもらいたい。そう意識が変わってから、より水泳が楽しくなり、日本代表として五輪で戦うことを楽しめるようになりました。 日本代表チームには同じ種目を泳ぐライバル選手もいますから、敵対視することもできます。しかし意外だったのは、日本代表のチームメイトや所属の違うコーチ、科学スタッフらに泳ぎの技術的な課題やトレーニング内容等の相談をすると、みんな喜んで教えてくれるのです。相談に乗った人は他人事ではなくなりますから、その後フィードバックの機会も生まれ、よりコミュニケーションは深くなっていきます。 スポーツ医科学チームのサポートも大いに力になりました。選手やコーチはどうしても主観的になってしまいますが、測定データを定期的に取ることで自分の状態や課題を客観的に知ることができます。彼らはより具体的な視点で選手の課題を指摘し、解決方法も共に考えてくれるのです。 限られた時間と気力と体力で何に注力するのかは、常に正し続ければなりません。パフォーマンスを上げるために必要な心技体のあらゆる要素の精度を上げることで成長のスピードが上がり、4年に一度という極めて少ないチャンスの中で目標に辿り着く可能性を高めることができます。