人生は、まだまだよくわからないし、油断できないーー仕事に育児に奔走する、吉田鋼太郎63歳
研究会の同期で、自分だけ卒業できなかった
希望して入ったシェイクスピア研究会だったが、そこは完全なる体育会系。 「入学して最初の5月に最初の試験みたいなのがあって、それがサークルの公演の仕込み日と重なっちゃったんですよ。当然試験を受けるもんだと思って、『先輩、試験があるので仕込みに行けません』と言ったらめっちゃ怒られて。『おまえ、仕込みと試験のどっちが大事だ』って。それからもう、授業にはほとんど行かなかった」 その後吉田は大学を中退。両親はそれを咎めることはなかった。 「何も言わなかった、それはありがたかったですね。母も若いころ絵描きになりたかったような人で、芸術方面には理解がありました。父は商社マンでしたけど、上智出身でね。僕が上智に入っただけで喜んでましたから、あとは好きにしていいよ、みたいな感じで」 シェイクスピア研究会の同期の中で、大学を卒業できなかったのは吉田だけだ。 「みんな裏切り者(笑)。優等生なんですよ。ちゃんと就職したり、学校の先生になったりね。今でも芝居をやってるの、僕だけです」
吉田が大学生活を投げ打ってまで演劇に打ち込むことができたのは、「根拠のない自信」があったからだという。 「いつか食べていけるはずだ、ってね。そう思い込まないとやってられないというか。21歳のとき、劇団四季の入団試験を受けたんですよ。すごい人気で、なかなかの難関だったんですけど、受かったもんだから『いける』って思っちゃって。その後入団したシェイクスピアシアターで、研究生の時に大きな役をもらったことがさらなる自信につながりました」
「いろんなものを投げてた」蜷川幸雄にしごかれて
吉田には10年スパンで、大きな転機が訪れてきた。 30代になったばかりのころ、ミュージカル『ブラッド・ブラザーズ』で役を得て、約200ステージほどをこなす。 「初めて大きな商業ベースの芝居に出たという、ターニングポイントとなった作品です。オリジナル演出家のグレン・ウォルフォードさんが、僕を大きな世界に連れ出してくれた。今月から公演される令和版『ブラッド・ブラザーズ』の演出を僕が担当しているんですが、当時はこんな未来が待っているなんて夢にも思っていなかった。だからお話をいただいたときには、面白い縁があるもんだな、と感慨深かったですね」 40代で、演出家の蜷川幸雄と出会った。 「足を向けて眠れない」と言いながらも、当時を振り返るとつい苦笑いになった。 「蜷川さんっていうと、激昂して灰皿を投げるみたいなイメージあるでしょう。その通りなんですよね、灰皿じゃなかったけど、いろんなもの投げてた(笑)。やめていく俳優もいたりして、もう、いつ自分がどやされるか、恐怖でした」 大学時代から鍛えられ、罵詈雑言は当たり前の演劇界を生き抜いてきた吉田。当時すでにベテランの40代であっても、蜷川のしごきには尻込みしたという。 「『バカヤロウ!』『不感症!』なんてしょっちゅう。個人批判も堪えましたし、いやもう本当に嫌でしたね(笑)。ノイローゼになるかと。それで鍛えられたのかもしれないけど、言われた本人はたまったもんじゃない。でもね、役者同士の結束感は強くなるんですよ。それにどんなに罵倒されても、蜷川さん自身のことは、僕は嫌いになれなかったな。なんとかこの役者をよくしてやろうという愛情がありましたし、それによってスターになっていった連中もいっぱいいますから。だからそれはやっぱり、蜷川さんの器の大きさだと思うので、それを別の演出家が簡単に真似できるかと言ったら、難しいですよね」