6月開始「定額減税」で手取りが増えても一時的 納税は絶対的な「義務」なのか
「私益」を徹底的に追求しさえすれば
このようなイギリス的国家論は、豊かな経済的基盤に支えられた市民社会が充分に成長を遂げた当時のイギリス社会を背景としていた。しかし、19世紀のドイツ社会はまだそこまで成熟していない。封建諸勢力が強固で、新興市民勢力は押しつぶされそうになっていたから、自律的市民社会の全面開花を謳歌するような理論は望むべくもなかった。無数の領邦国家に分立して統一国家の体裁をなさず、ナポレオンの侵攻に対してはなす術もなく次々と敗退していったドイツが、イギリスやフランスといった先進国家に対抗して国民国家を形成し、統一市場を創出して発展を遂げるためには、国家がイギリスとは全く異なる役割を果たさねばならなかったのである。 市民がそれぞれに「私益」を徹底的に追求しさえすれば、結果としてそれが社会的に最適な秩序の形成につながっていき、個と全体の調和が幸福な形でもたらされるはずだというのがイギリス的な市民社会論であり、「原子論的・機械論的国家観」であった。ホッブズやロックの思想に顕著に見られたように、社会を形成してゆく出発点はあくまで「個」の側にあった。
ドイツでは国家と個人は運命共同体
ところが、それとは対照的に、後進国ドイツでは国家こそが社会秩序の形成者であり、社会の発展を促すための法的・経済的基盤を整えるという大きな役割を担う必要があった。ドイツ的国家論では、全体利益あってこその私的利益であり、全体利益と私的利益の間に矛盾や対立は発生しえず、両者はいわば一心同体であるとされた。図式化して言うなら、イギリス的国家論では国家が死んでも個人は残るのにたいして、ドイツ的国家論では国家と個人は運命共同体と捉えられたのである。 原子たる個人が国家を作るのではなく、市民社会と国家はあたかも生命体のように一体をなしているとするこのような「有機的国家観」は、ドイツ的な租税理論や、納税を「義務」と見なす倫理観に多大な影響を及ばした。いや、その前提となったとさえ言えるだろう。 ※本記事は、諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』(新潮選書)を再構成して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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