日本刀や船、さらには中世時代の子どもに「〇〇丸」といった童名がつけられてきた理由
時間意識の拡大
それから第二が楽。音楽である。音楽とは「もう聴こえなくなった音」と「まだ聴こえない音」の両方を今ここで聴き取れないと聴取することも、演奏することもできない技芸である。 リズムもメロディも「過ぎた時間」と「未だに到達しない時間」の両方に意識の触手を伸ばすことができる人間にしか感知できない。時間意識の拡大によってはじめて人間は過去を顧み、未来を予測することができるようになる。 そして、そのタイムスパンの中で、不安や後悔といった感情を知り、因果や矛盾や確率といった概念を知ることになる。 射は「弓を射る」、武道的な身体運用のことである。先に述べた通り、「この世ならざるエネルギー」を調えられた心身を通過させて発動する技術のことである。 御は「獣を御す」、野生獣を馴致させて有用な働きをさせる能力である。牛飼いがそうであったように、御の術もまた「異界」と「この世」の境界線上に立つ能力である。 日本では武道のことを古くは「弓馬の道」と言った。射と御を合わせたものが武道に当たる。 学校は今では六芸のうち「書」と「数」だけしか教えなくなった。これは子どもたちを最初から「こちらの世界」のフルメンバーとして遇することである。 私は、それは違うだろうと思う。 学校は子どもたちを「あちらの世界」から「こちらの世界」へそっと移動させる、きわめてデリケートな作業を求める場なのである。半ば野生の存在である子どもたちを文明化していくというプロセスは「アドレッセンスとの決別」を子どもたちに強いることなのだから、しばしば彼らは学校に通うことそれ自体で激しい痛みを経験する。 かつての日本人は、子どもは壊れやすいもの、傷つきやすいものだと知っていたので、丁寧に扱った。異界にまだ半身を残している「聖なるもの」だと知っていたので、子どもを「敬する」仕方をわきまえていた。それはもう現代社会の常識ではない。 それでも、直感にすぐれた教師たちは、学校教育が子どもたちにとって外傷的経験になるリスクを感知して、子どもたちを傷つけないことを優先的に配慮している。けれども、そのような配慮が人類学的な深い意味を持つことを理解している人は教育行政の要路にはたぶん一人もいない。 写真/shutterstock
---------- 内田樹(うちだ たつる) 1950年生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。著書に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『死と身体』(医学書院)、『街場のアメリカ論』(NTT出版)、『街場の中国論』(ミシマ社)、『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の天皇論』(東洋経済新報社)、『レヴィナスの時間論』(新教出版社)、『コロナ後の世界』(文藝春秋)、『そのうちなんとかなるだろう』(マガジンハウス)など多数。 ----------
内田樹