大阪大空襲は「作家・山崎豊子」の原点 終戦間際に書かれた日記見つかる
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「白い巨塔」や「沈まぬ太陽」など社会派小説で知られ、2013年に亡くなった作家の山崎豊子さんが、終戦間際の駆け出しの新聞記者時代に書いた日記が見つかった。「不毛地帯」など戦争三部作を残した作家の「原点」ともいえる1945(昭和20)年3月の大阪大空襲での体験もつづられており、注目を集めそうだ。
「忘れる事の出来ない日」
見つかったのは1945年元日から3月27日までの約3か月分。山崎さんの自宅の部屋を整理中に、創作ノートの束の中から、表紙がちぎれた一冊のノートとして発見された。大阪市出身の山崎さんが毎日新聞大阪本社に勤め始めた20~21歳ころのもので、仕事の話、作家になりたいという思い、淡い恋、そして大阪大空襲や地元大阪・船場の様子などがつづられている。 3月13日、大阪大空襲の日。この日の日記は「三月十三日、この日は自分の生涯を通じ、又、自分の家の後代に至るも忘れる事の出来ない日だろう」との書き出しで始まる。 すき焼きとお酒の贅沢な夕食を楽しみ、寝ついた後、その時が訪れる。「夜の巷、突如として騒然たり」ーー。慌てる家族、ラジオ、怒鳴り声、拡声器。防空壕へ入ってから聞く焼夷弾落下の音、飛び出して見てみると、自宅にまで迫り来る火の手。そういった情景を臨場感を持って描きつつ、一方で、自宅が燃えるかもしれないという状況をあくまで客観的に描写しているのも、後の大作家の筆致を予感させる。
戦争を描くことは「ライフワーク」
遺作となった2014年の「約束の海」などで山崎さんの担当編集者だった新潮社の矢代新一郎さんは、山崎さんは「戦争を描くことはライフワーク」と語っていたと明かす。「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」のいわゆる戦争三部作をはじめ、山崎さんの作品には戦争を描いたものが多い。そういう意味で、「大阪大空襲は作家・山崎豊子の原点だった」と矢代さんは解説する。 日記では、淡い恋の話も記されている。「なんとかしてもう一度会いたい」「彼はついに発った」などのタイトルで、出征していく男性への思いもつづられている。日記には、そんな人間臭い一面もかいま見える。 山崎さんのおいの山崎定樹さんは、「大阪の普通のおばちゃんと、大作家・山崎豊子の2つの顔を持っていた」と振り返る。執筆中は親族といえど、うかつに話しかけられる状況ではなかったという。
日記は7月15日に発売される「山崎豊子 スペシャル・ガイドブック」(新潮社)に21ページにわたり収録されている。同ガイドブックには、ほかに創作ノートや取材ノートも収められる。