涙ぐむ男性も...フェミニズムの象徴になった“テニス史に残る男女対抗試合”
人々の価値観や考え方を変えるため
試合前夜はよく眠った。当日は、予定どおり遅めの時間に起床した。 ABCのレポーターのフランク・ギフォードが来て、その夜の放送で使うインタビューを撮影することになった。フランクのタキシード姿は決まっていた――テニスの試合を取材するには不釣り合いな衣装ではあったが。とはいえ、そのイベントの何もかもが現実離れしているか、桁外れかだった。 その夜の観客数は3万472人――テニスの試合としては過去最高――で、ヨーロッパでは真夜中過ぎだったにもかかわらず全世界で9000万人がテレビ中継を観た。CM料金は1分当たり9万ドルだった。 フランクと私は静かな一角を見つけて撮影を始めた。体調はどうかと訊かれて、100パーセントだと答えた。あれから何十年かのあいだにその録画を何度か見たが、私はずいぶんと声の調子を抑えて話しているなと毎回思う。 私の政治的立場に反感を持つ人が一部にはいたし、私もそれは知っていた。そのころはよく"暴れ馬"と評されていた。 さて、自分を腹の底から嫌っている人たちの気勢をくじくにはどうすればいい? 私は攻撃的なしゃべり方をするだろうと世間は思っている。そこで私は、理性的で落ち着いた、穏やかな話し方を心がけた。インタビューの最後、フランクはお約束の質問をした。 「フェミニストの運動についてですが、やはり重要なことなんでしょうね、ビリー」 私は慎重に言葉を選んで答えた。 「私にとって女性解放運動は意義あるものです――現実と乖離しないかぎり。女性解放運動は、女性に限らず、もっと多くの人がより暮らしやすい社会をめざす運動です」 いうまでもなく、私はフェミニストだった。いまもそれは変わらない。一方で、私はさまざまな影響を考慮に入れていた。あの試合をやろうと思ったのは、人々の価値観や考え方を変えるためだ。 あの試合が社会に及ぼした影響は、私の想像をはるかに超えていた。ボビーとの試合の前から、私はウーマンリブのデモ行進に参加していたし、中絶の経験も公表されていた。因習にとらわれない種類のキャリアウーマンかつ妻として自分の手で道を切り拓いてきたし、"風変わりな"結婚についての詮索にも耐えてきた。 ジャック・クレイマーのような男性の権力者やテニス界の凝り固まった体制と公の場でやり合ってきた。脅されようと、そんなことは無理だと言われようと、男子と袂を分かって初の女子プロツアーの設立に尽力した。 つまり、私はボビーとの試合以前からつねに自分の主張を明確にしてきた。ところが、ボビーは女性全般をばかにするような言動を繰り返した。だからあの夜、アストロドームで、私はあらゆる女性を代表して自分の主張を証明したように受け止められたのだ。 私の考えに賛成していなかった人も、私のプレーには感服した。それまで不信の目を向けていた人も、私をまた違う目で見るようになった。もともと私を好いてくれていたファンは、いっそうの好意を寄せてくれたようだ。 私は突如として社会正義運動の最前線に立たされた。その運動は大きな変革を起こし始めていて、私に与えられた影響力はスポーツを封じこめていた壁を飛び越え、ショービジネス、経済、政治の世界に広がった。かつてないほど大きな発言力を、差別撤廃を訴えるのに利用しようと思った。 女の子であろうと男の子であろうと同じ夢を抱ける社会にしたかった。 それからの数カ月、新聞や雑誌のインタビューに延々と応じた。マイク・ダグラス司会の人気トーク番組のゲスト司会を一週間務めたり、ソニー&シェールのコメディ番組にカメオ出演したりもした。 ほかにもたくさんの依頼が殺到した。試合前に私がコートに姿を現しただけで、あるいは演壇についただけでまだ一言もしゃべっていないのに、スタンディングオベーションが起きるときもあった。当面終わりそうにないウィニングランを続けているような気分だった。 もちろん、大きな注目を集めると同時にプライバシーは完全に失われ、スケジュールはそれまで以上に立てこんだし、窮地から救ってくれという一般の人からの手紙が洪水のごとく押し寄せた。そんな経験は初めてだった。みなが私には魔法の杖があると信じているかのようだった。 私は昔から"ノー"と言うのが苦手だ。親切で善良な人間でありたいと思っているし、排除されたくない、存在しないかのように扱われたくないという気持ちが理解できる。おそらく私は"イエス"と言いすぎなのだ。 クリッシーはよく、私は"数百万人の母親"になったと冗談を言った。女の子も大人の女性も、お母さんもお父さんも、学校の教員やコーチも、あらゆる立場や職業にある人たちが、私に来てほしい、悪を正し、ドラゴンを倒すのを手伝ってもらいたいと連絡してきた。いまでもそういう手紙は届く。それに対してはできるかぎりのことをしている。