なぜ新谷仁美はマラソン日本記録に12秒差と迫れたのか。レース直前までケンカ、最悪の雰囲気だった3人の選択<RS of the Year 2023>
レース3日前のケンカ。プロゆえに「たかが5分」の重要性
日本記録更新に向け、最も重要な役割を担うペースメーカーを任されたのは、新田良太郎コーチだった。3カ月に及ぶ練習で献身的に、新谷と並走してきた新田コーチが、ブチ切れたのはマラソン当日のわずか3日前である。 その日、練習に横田コーチが5分遅刻。直前に入った仕事に対応したためだったが、それを新谷は許せなかった。 「私は試合に近づくにつれて、きっちりしたい派で、試合を想定した日の練習は試合通りに動きたいんです。私も許す心を持つべきなんですけど、試合前最後の刺激だから、決めた時間で絶対にスタートしたかった。たかが5分。でも、私には、たかが5分じゃない。それで横田さんと私がいつもの言い合いになって。それが新田さんに伝染しちゃったんですよね」 新谷と横田コーチの言い争いはよくある光景だが、新田コーチも緊張の限界だった。日本記録挑戦のキーマンという重責、もともと実業団の長距離選手だが、新谷に合わせるにはほぼ自己ベスト並みの走りが必要となる。その中で選手に気を配り走る難しさは、“選手以上に緊張するかもしれない”と新谷自身も理解を示す。 新谷と新田コーチ、お互いギリギリの緊張感の中、練習でリズムが合わない。足がぶつかるなどあり、新谷がそれを指摘する。ついに、新田コーチは声を荒げた。 「じゃあ、自分で行けよ!」 レース直前で、主役の2人がケンカするという、絶望的な状況だった。
ペースメーカー新田コーチのレース前夜の決断
それから、レースまでの3日間。2人は口をきくことなく、目も合わさない。最後の調整も別々で行うなど最悪な雰囲気に。のちに新田コーチはこの状況下で、「このままヒューストンから帰ろうと思った」と話している。 「振り返れば、このマラソン挑戦でピリついたのは何回もありましたけど、余裕がなくなってきてコップが溢れた感じでした。自分に余裕がなくなったのが一番の理由かもしれないですね。普段だったら受け流せることも余裕がなくて……。言われて、沸点上がって言い返すみたいな。とても日本記録を狙うレースの前とは思えない雰囲気でした」 ただ、レース前日の夜、ここまでの挑戦の過程を振り返ることで、自然とその怒りは収まったという。 「本当にそれまでは、レースで引っ張りたくないと思っていたんです。でも、前夜にベッドに入っていろいろ考えて、『自分個人の感情を優先してはダメだ』と思った。このチャレンジに関わってくれた人たちの思いを無駄にしないためにも、“自分がやれることを全力でやらなきゃ”と思って寝たら、気持ちが楽になったんです」 結果、レース前の緊張もあり、2人が再び心を通わせたのはスタート約5分前。不安そうな新谷の背中を、新田コーチが優しく叩き、3日ぶりに会話を交わす。 「大丈夫です。今日は遠慮なく、なんでも言ってください。全力でサポートしますんで」 かくして、新谷の日本記録への挑戦が始まったのである。