なぜ新谷仁美はマラソン日本記録に12秒差と迫れたのか。レース直前までケンカ、最悪の雰囲気だった3人の選択<RS of the Year 2023>
「新谷をきちんと見て、新谷に合ったトレーニングを組む」
ヒューストンマラソン出発の1週間前、横田コーチの心境は、シンプルに「怖い」だった。今回のマラソン日本記録更新に向けて選んだ、「距離にこだわらない練習方法(必要以上に長い距離を走らない)」がハマるか不安だったからだ。 「昨年3月に走った東京マラソンの反省を踏まえ、僕らは“いわゆるマラソン練習”をやるのではなく、“自分たちが目指すマラソン練習”をやろうと決めた。本を読んだり、誰かの感情が入っていない客観的な情報はいろいろ勉強していますけど、今まで練習メニューは新谷と僕で相談して決めてきた」 「僕らの原点は“道なき道を行く”。そう考えると、新谷をどう走らせるか。新谷をきちんと見て、新谷に合ったトレーニングを組む考えが、前回は僕の中に欠けていた。それが申し訳なかったから、今回は逆に『新谷の良さを引き出しながらマラソン練習をどう組むか』に立ち返ったんです」 新谷の強みを一番に考えた練習方法。そのコンセプトは「早い動きの中でリズムをつくる」だった。東京マラソン時の設定1km 3分20秒ペース(当然それは恐ろしい速さだが)は、逆に新谷からすれば“遅すぎる”、というか“リズムが悪い”。なら、1 km 3分17~18秒。もっといえば1 km 3分10~15秒で基本をつくるという、より速くする前代未聞の判断をしたのだ。
『マラソン走るなら1000kmぐらいは踏むべき』からの脱却
マラソンを走るには、距離を踏まなければならない。その固定概念から解放された新谷は、気持ちが割り切れたことで、常にフレッシュな状態で練習に臨めた。横田コーチはその経緯を説明する。 「前回の東京マラソンでも『距離にこだわらないようにしよう』と話していましたが、終わってみると、やっぱりとらわれていた。今回はそうじゃなく、練習計画で立ち返るポイントは2つ。動きを崩すことはしない。あとは、継続できなくなるようなことはしない。それを軸に、練習の負荷を上げて走る、“量より質”を追求したんです」 結果的に、練習段階で最も長い距離をレースペースでこなしたのは、12月31日に走った16 kmのみ(実際はレースペースより速かった)。ジョグで最長32 km、5000m×4本などの距離対策は行ったが、今まで抽象的に認識されてきた「マラソン走るなら1000 kmぐらいは踏むべき」「1200 kmも走っとけば安心」といった、距離中心の練習は行わなかった。 横田コーチが新谷を指導するうえで重要視するのは、あくまで「新谷のリズム」だという。 「新谷にも一日のリズムがある。このタイミングでトレーニングして、支度して、休んで、ご飯食べてみたいな。そのリズムを壊さないことは考慮しました。例えば練習場所なら、前回は無理してでも遠くに行って練習したけど、それだと新谷の大事にしていることが崩れる。今回は良いコンディションの中で何ができるか、考えました」 新谷を見て、何が彼女に最適なのかを考え抜いて強化を進めてきた横田コーチ。しかし、本番であるヒューストンマラソンの3日前、事件が起きる。新谷とペースメーカーを務める新田コーチがケンカする最悪の状況に陥ったのだ。