「デザイナー生活50年」元日産の中村史郎氏、カーデザイナーとして最高の栄誉を獲得
元日産自動車の中村史郎氏が『CDNライフタイム・アチーブメント・アワード』を受賞した。いすゞでデザイナーになってから今年で50年。カーデザイナーとしての長年の功績が国際的に認められたものだ。 中村史郎氏がデザインを手がけた代表的車種 ◆日本人デザイナーの初受賞 カーデザイン専門メディア、CAR DESIGN NEWSが主催する『CDNライフタイム・アチーブメント・アワード』は、カーデザイナーにとって最も名誉ある賞とされる。その表彰式が12月5日、英国ロンドンで開催され、中村史郎氏が栄えある受賞者として登壇した。今年で11回目となるこのアワードで、日本人が選ばれたのは初めてだ。 中村氏は1974年にいすゞに入社。デザイン部長にまで登り詰めていた99年に日産に転職し、デザイン本部長/チーフクリエイティブオフィサーとして2017年まで日産デザインを牽引した。日産を退任後は「SNデザインプラットフォーム」という会社を設立し、国内外のクライアントのために今も精力的にデザイン活動を行っている。 CAR DESIGN NEWSはプレスリリースで、授賞理由をこう説明する。「彼はいすゞ(のデザイン)を静かに高めた後、日産の運命を劇的に変えた。そうやって彼は日本のカーデザインを世界のステージに押し上げたのだ」 ◆デザイナーからデザインマネージャーへ いすゞ時代の代表作を挙げれば、量産車では3代目『ジェミニ』と『ビークロス』だろう。初代ジェミニはオペル『カデット』をベースとする姉妹車で、2代目の基本デザインはジョルジェット・ジウジアーロ氏が担当。3代目にようやくいすゞ・オリジナルでデザインすることになり、GMへの派遣出向から帰国したばかりの中村氏の提案が採用された。 その3代目ジェミニの量産化開発が進んでいるとき、中村氏はベルギーに赴任して新たなデザイン拠点を設立。『4200R』(89年)、『コモ』(91年)、『ヴィークロス』(93年)という一連のコンセプトカーをデザインし、世界から注目を集めた。ヴィークロスは97年、ビークロスの名で量産化されている。 スーパースポーツの4200Rでは当時は同じGM傘下だったロータスの協力を得てデザインを開発。V12を積むスーパーピックアップのコモのときは、ロータスから移籍してきた二人のデザイナーが中村の下で働き、ヴィークロスではさらに本社から2名のデザイナーが加わった。 中村氏はベルギー駐在の経験を振り返って、しばしばこう語る。「優秀なスタッフを得て、もう自分でスケッチを描かなくてよい、彼らの能力を引き出すことに集中しようと考えた」。デザインマネージャーとしての原点がここにあったのだ。 ベルギーから帰任後はRVグループ担当の次長として2代目『ミュー』/『ウィザード』などを手掛け、米国いすゞの商品企画担当副社長を経て、98年4月にデザイン部長に就任。日産への電撃移籍はその1年半後のことだった。 ◆日産デザインの再建と役割の拡大 カーデザインの世界で有名なニューヨークのヘッドハンティング会社から「日産のデザインのトップに」と誘いを受けた中村氏は、当時のカルロス・ゴーン社長との面接を経て移籍を決断する。当時の日産はエンジニアがデザイン本部長を務めるという異常事態。ゴーン社長にとってデザイン部門の立て直しは急務だった。 その期待に応えた最初の例のひとつが2代目『キューブ』(02年)だ。四角いフォルムに左右非対称のウインドウ。型破りなデザインが若い世代に共感され、大ヒットとなった。さらに初代『キャシュカイ』(06年/日本名『デュアリス』)や初代『ジューク』(10年)が欧州クロスオーバー市場のベストセラーになるなど、ヒット作を連発。世界初のSUVクーペである『FX45』(03年/日本未導入)をはじめ、インフィニティの躍進にも貢献した。 こうした製品デザインに加えて、中村氏が注力したのがブランドデザインである。日産として一貫したイメージを世の中に伝えていくため、NISSANロゴや店舗デザインを刷新し、モーターショー・ブースやカタログなどもデザイン本部で監修する体制を構築。自らテレビCMに出演することもあった。CAR DESIGN NEWSのプレスリリースは触れていないが、そうやってデザインが持つ役割を拡大したことも中村氏の大きな功績だ。 日本語に訳せば「生涯業績賞」となる『ライフタイム・アチーブメント・アワード』だが、表彰式から帰国した中村氏は「デザイナー生活50年になる今年に受賞できたのはありがたいこと。最年長日本人現役デザイナーとして、まだもう少し頑張りたい」と、さらなる創作への意欲を語っている。
レスポンス 千葉匠